another 2






 もしもの話である。
 もしも花京院典明が空条承太郎の変化に気がつかなければ、そのまま旅は進行し、DIOの秘密を暴くために彼が命を落としたのかもしれない。もしも空条承太郎が花京院に話したその理由を説明したならば花京院は口裏を合わせて彼の死を隠し通したのかもしれない。もしも花京院がディオ・ブランドーという人間の価値観、理念、その人生を知っていたのなら、彼はディオ・ブランドーを哀れんでその口車には乗らなかったかもしれない。もしも花京院に、DIOに向かっていかなければ自分の人生から逃げたことになる、と思い実行するほどの強さがなければ彼は決断をしなかっただろう。もしも花京院をDIOが連れ去らなければ、彼はどこかで空条承太郎や仲間との贖罪の機会を得たのかもしれない。もしも空条承太郎が死んでいなかったのならば、花京院典明はこのようなことを考えもしなかっただろう。もしも。もしも。いくつものもしもは切り捨てた可能性と同義だ。
 しかしそんなもの花京院には夢ほどの意味もない。

「不機嫌そうだな、花京院」
 花京院は夜風で冷えた掌を何度か握り開きながら、いいえ、と答えた。花京院が不機嫌そうに見えるのは感情のそぎ落とされた無表情のせいだっただろう。心の底から不機嫌ではないと言いきれはしないがそれでも花京院の心は凪のように平坦だった。DIOはそんな花京院の態度に気を悪くもしないで、ただ笑っていた。
「せっかく館にやってきたんだ、くつろいでくれよ」
 暗闇の中でそここそが生きる場所だとでもいうようにDIOは鷹揚に喋った。対して花京院は息がしづらく眩暈がおそってきそうだった。その感覚は貧血で倒れる直前に似ていた。
「お前はここに来るのは初めてだっただろう?」
 エジプトでDIOに出会った時のことを花京院は覚えている。圧迫感、恐怖、それにも抗えない救いがたい引力。もがく体と魅入られた心、分裂して壊れてしまいそうだったあの数分を忌々しいものだと、覚えている。DIOの言葉は泥のようにまとわり付いて耳から鼓膜を這い破って脳髄を侵食する。やがて神経も全ておかされて指一本さえ動かなくなる。
 花京院は息を吐いて、吸った。酸素が届かない気がした。
「随分と暗い」
「日の光は忌々しい。いずれ克服したいものよな」
 DIOは笑う。ひどくいやらしい笑いだった。
 いつの間にかDIOの後ろに男が一人立っていた。洗練された仕草でDIOの上着を受け取り、物音も立てずに引っ込む。沈黙が訪れた。館の中は暗く、蝋燭の光がぼんやりと埃だらけの書架を照らしている。このままこれを倒したらよく燃えるだろうと花京院は考えた。燃やしてどうするのだとも、同時に思った。
 花京院はDIOを打ち倒したいわけではない。殺したいわけではない。克服はそれ自体を乗り越えなくてもできるのだろう。彼がいなければ、何も埋まらないのだ。花京院は自分を操り人形のようだと自嘲した。違う点があるとするならばそれは、自分で操られるのだと決めているということだった。その相違はあらゆる決断を生みはする。たとえばその糸を花京院はきることが出来る。切れば動かなくなる体を受け入れる事が出来れば、の話ではあるが。
「花京院」
 DIOは花京院の名を呼んで、何かを投げてよこした。花京院は暗闇の中で飛んでくるその白い物体をなんなく掴んだ。それはすこし湿った、冷たい欠片だった。
「それはこの体の骨だ。簡単な探知機だと思え。ジョースターの居場所をおぼろげながら探知できるだろう」
 夜の気配は冷たい。この館は死に満ちている。息がしづらい。彼がもしも生き続けるならばこのような場所でだろうと花京院は思った。DIOと承太郎は似ても似つかない、というのにその抗いがたいところだけが似ていた。星の光も、闇の暗さも、どちらも人を惑わせる。あの空に輝く星は本当に希望だろうか。この夜に立ち込める闇は本当に恐怖だろうか。だがそれはどうでも良い事に違いない。
「殺してもよい。生け捕りでもかまわない。他のスタンド使いが要るならテレンスに言えば用意させよう。好きにしろ、花京院」
 だが、とDIOは滑らかに喋る。
「ジョースターがここにたどり着く前には、どうか私の目の前に死体を並べるなりしてくれ」
 頷く。何もかもに目をつぶって、ただ一つのことを考え続ける。あのホテルの部屋の静けさばかりを。

 花京院典明は病院から失踪した。血痕も残っていなかったし、死体すらなかった。荷物もまるごとなく、まるで最初からいなかったかのようだった。承太郎たちは花京院がどうなったのか一通り探して、そうして時間に押されて病院からは離れた。戻ってきたら財団のほうに連絡をいれるように病院に言い残して、彼らは旅立った。
 誰もが花京院が死んでいると考えたくは無かったし、まして逃げ出すなどというのは論外だった。ならば最初から付いてくるはずもない。ポルナレフはまた何かたくらんでいるんじゃないだろうなと、少しだけ拗ねたように言って、ジョセフは今度こそは本当だと否定した。エジプトまであと少しの道中で、皆もうすぐだろう旅の終わりを漠然と考えていた。そのとき自分が生きているのか死んでいるのかさえあやふやで、しかし逃げ出すことは出来なかった。逃げ出せばそれは死んだように生きるという事だった。ならばいっそ死んだ方がましだったし、彼らはそのようなことを考える人間ではなかった。
 花京院がいなくなった日の夜空ではいつもと変わらない星が瞬いていた。ちかちかと光っている。
 承太郎はため息をついた。砂漠の夜は寒く、水分さえあれば容易に凍てつきそうだった。息を吐けば白く曇るはずのそれは、だが透明だった。砂漠の夜は時折憂鬱で、体は温まることがなく、悪寒はとまらない。外界に対する反応が鈍くなるだけ、自らの内側が研ぎ澄まされていく。スタープラチナは以前よりもはっきりと見えるようになった。
 皮肉だと、承太郎は思う。
 承太郎は自分があまり難しいことを考えない類の人間だと思っていたので、この現実に対してもまったく明快な答えしか持っていなかった。母親の命が危ないこととを承太郎は決して忘れてはいなかった。その解決策がDIOを倒すしかないことも知っていたし、また自分が死んだこともいずれ動かなくなる体も、解決策が全く無いのだとわかっていた。
 事実と感情は別物なのだという事を、承太郎は花京院の表情を見て考えていた。あの日の静けさは、常に承太郎の周りで停滞していた。花京院の顔を見ていると悲しみに流されてしまいそうで、承太郎は困った。
 砂漠の夜は憂鬱で、承太郎はため息をついてしまう。冷たい息は曇ることもない。