恐がり










 ライドウには怖いものなんてなさそうだよねぇ、というのがあの人の談、とライドウは無表情に言い放った。暮れかけた夕暮れの空は赤も橙も青すら通り越して灰色の色をしている。鼠色の空に、赤い鳥居がぼんやりと浮かんでいて、人影はない。ライドウは多聞天の石段に座っている。その横では黒猫が聞いているのやらいないのやら、耳をぴくりと動かした。
「だって悪魔も幽霊も土台お前には敵わない。時には神も、絶望した人類の総意さえ」
 声音を返るのはやめろ、と猫が鳴き声で言う。ライドウは唇からわずかに笑い声を漏らしてからのばしていた足を畳んだ。膝に頭を乗せて黒猫を覗き込む。
「私にも、怖いものはありますよ」
 声音を戻してライドウは言った。猫は知っているのか知らないのかわからぬままに立ち上がった。日が暮れて満月が昇る。悪魔の騒ぐ良い日だ。
「今日は何もかも没交渉だ」
 強い悪魔に出会えたならば僥倖だと、青年は笑う。その微笑みは美しい。

「ライドウの怖いものってなんなんだろうねぇ」
 ねぇ、ゴウトと昼下がりの探偵社で探偵は実のならない独り言を呟いている。
「きっとひどく他愛のないものなんだろうね」
 ああいう人間の常だから、と探偵はゴウトを撫でながら言う。ゴウトは探偵の手を振り払う事すらばからしくて身動きひとつしようとしなかった。
「きっとまんじゅうこわい、とかそういうのだぜ」
 探偵はお気楽そうに笑う。それ以外ならばあまりにも青年が哀れなので、気楽さを装って笑う。
「俺はライドウに居場所を作ってやる気はないんだよ」
 それは、あまりにも恐ろしかったので。

 ゴウトはいつ探偵をひっかこうかと爪の出し入れを繰り返している。

 猫は憂いている。
 探偵は恐れている。
 青年は考えている。
 悪魔を斬る合間に、その肉の断面を見ながら、その血液を浴びながら、空中に散る幻視的な緑の光を見ながら、悪魔を操りながら、悪魔の屍を足蹴にしながら、強くなる己を感じながら、果ての見えぬ道を走りながら、青年は考えている。
 何を?
「何を?」
 猫が聞く。青年は一瞬だけ躊躇をする。満月はそろそろ夜の真ん中にさしかかる。昼下がりの探偵社で、探偵に聞かれたらどれだけ良いだろうと青年は考える。また考えている。
「俺には恐ろしいものなんかないんだよ」
 探偵にそっくりの声音とおどけた顔で青年は言う。それからもうひとふざけするように重ねた。
「俺には怖いものはたくさんあるんだよ」
 大家さんとかねと鳴海さんなら言うだろう、と付け足す様はなるほど探偵によく似ている。悪い遊びを青年が覚えたのは良くないことには違いなかった。猫は咎めるように鳴いて、青年はふと真顔になった。
 青年の握る刀は悪魔の血を浴びてなお錆びる事がない。
「私が真に恐れるものは、ゴウト」
 青年は力強い仕草で太刀から血を祓った。異界から戻ればそれはただの月の輝く夜道だ。今日は月の光が明るいせいで、道の隙間も、青年の顔もよくよく見える。
「悪魔も、ゴウトも、鳴海さんさえ失って、それでもなおただ一人生き残ってしまうことだ」
 しかし彼は変わらず美しく微笑んでいる。

「ライドウには怖いものなんかなさそうだよね」
 へらりと鳴海が笑う。
 ライドウはそれに返して、微笑んだ。優雅な微笑みだった。
「私にだって怖いものはありますよ、鳴海さん」
 へぇ、どんなもの? と鳴海は聞き返す。ライドウは顎に手を当ててしばらく考えてから、そうですねぇ、とゆっくりと呟いた。
「まんじゅうこわいとでも言う機会でしょうか」
 鳴海はライドウの物言いにすこしだけ面食らって、それから脱力しきったように笑い出した。
「それは、面白くないなぁ、ライドウ」
「それは申し訳ありませんでした、鳴海さん」
 窓から差し込む日は傾いて、そろそろ夕暮れ時がやってくる。