多聞天にて





 古びた幹に、茶色の蝉が止まっていた。薄く透明な羽に描かれた小さな黒点は人の顔のように見える。蝉はその羽を震わせては、じぃじぃと絶え間なく鳴く。多聞天の裏、井戸の側の縁側で雷堂は寝転がり、空を見上げていた。空は雲が一切横たわっていなく何もかもを押しつぶすような濃密な濃さで雷堂を圧倒している。視力の弱い右目は焦点を合わすこともずらす事も出来ないままに、引きつるばかりだった。
 遮るものの全くない太陽はじりじりと空気をやき、廂から飛び出している雷堂の膝を灼いた。上着や外套、靴や学帽は隣に脱ぎ捨てられ、雷堂には酷く珍しい事なのだが、シャツの釦を上から二つ、三つ開け放していた。風も起こらぬ夏の昼間は雷堂の首筋をぬるく包み込み、外した釦でも逃しきれない熱によって汗は額から頬へ、首筋から胸へと伝っていた。
 暑い、と雷堂は空を見上げながら思う。夏の空はどうしてこんなに力強いのか時折疑問に思う。少しでも涼を得ようと(右目がやたらと光を取り込むせいもあった)雷堂は目をつぶった。瞼の裏で訪れた橙色は夏の生ぬるさを殊更強調するだけだった。まるで何者かに全身を包まれているようで、不快だ。
「何をしているのですか」
 突然、視界の一部が暗くなり涼やかな声がかかった。雷堂は自分に声をかけた人物が誰か、半ば予想しながら瞼を上げた。すると自分を覗き込むライドウと目があった。ライドウは呆れた顔で、雷堂を覗き込んでいるようだ。首元まできっちりと閉められた外套に雷堂は内心舌を巻く。こんな外気で暑くないのだろうか。雷堂の目線で何を思っているのかを察したのかライドウは涼しい顔で先回りした。
「暑いですよ、でも」
 ほら、と外套をまくった。雷堂はほおと気の抜けた声を上げた。なるほど、ライドウの外套の下で悪魔が鳴いた。悪魔の周りにはきらきらと冷気の帯が透けて見えた。
「まぁ、焼け石に水ですけどね」
この暑さでは、とライドウは目を細めて空を見上げた、夏特有の厚い雲の高なりはどこか彼方に消え去って、秋晴れのような底なしの群青があるばかりだ。落ちてきそうだ、とどちらともなく思う。
 だから、感謝してくださいね、と笑ってライドウは雷堂に瓶を投げてよこす。冷たくひんやりとしたそれはソーダ水の瓶だ。悪魔が持っていたのか、中身が所々凍っては白くなっている。
「ミルクホールのマスターがくれましたよ。角柱集めのついでに寄ったんです。」
「…烏に、この世界にはあまりかかわるなと」
「確かに言われたんですが、この暑さだと」
 いくら悪魔を使ってはいても、喉を潤したくなるものじゃないですか?と緩やかに問うライドウに雷堂は仕方なしに同意した。風もない真夏の昼間はただでさえ動く気力をこそぎ落とす。まして黒尽くめの自分たちであればなおさらだ。
「あなたによろしくとマスターから言伝かってますよ」
 わかった、という了解を示すために片手をあげれば、ライドウは雷堂の隣に座り込んだ。ぱたぱたと外套をはずし、雷堂のような格好になってしばらくぼんやりと二人で空を見上げていた。雷堂はもう一度を目を瞑る。暗闇にじぃじぃとなく蝉の声が聞こえる。
「探偵社、今日も締め切ってますね」
「また、どうせあの馬鹿が家賃を振り込んでないんだろう」
 雷堂の物言いにライドウはふっと笑った。
「よくあることなんですか?」
「お前の方はどうだ?」
 問い返されてライドウは少し面食らいながら答えた。
「…家賃不払いはよくありますが、閉め出された事は…」
「それは喜ばしい事だ。うちのと取り替えて欲しいくらいだ。」
 それが答えだ、とでも言うように雷堂はため息をつきながらソーダ水の瓶を開けた。ひんやりとした空気が瓶の口から漏れている。
「ここにきて、どれくらいたつ?」
 唐突に雷堂が問うたが、ライドウはさほど気にせずに、一月ほどでしょうかね、と答えた。
「そんなにゆっくりしていて、お前のほうの帝都は大丈夫なのか?」
「あぁ、大丈夫でしょう。事態はおそらく緊急を要しているのでしょうが、ここでどれだけ過そうとあまり変わりはないはずですよ」
 ここと、僕の世界では、とライドウは解せないのだろう雷堂に向かって流れるように喋る。
「時間の流れがずれています。という事はおそらくですが、時間の流れといったものの外から来たのでしょう。そこではどれだけ時間が経つか、と言った事は意味がないでしょう?ここで三年過しても、戻るとき時間の外から、自分が居なくなった次の瞬間を選べばいいだけですからね」
 だからあまり時間に関しては心配をしていません、とライドウは何を考えているのかわからない笑顔を浮かべた。ナルミの顔に似ているな、と雷堂は思ったのだが、しかしあまり気にしない事にした。
「さて、お前、帰る気があるのか」
 雷堂の問いにライドウは面を食らって、その笑みをいっそう深くした。
「角柱ももうじき集め終わりますからねぇ」
 せみが鳴くのをやめて、飛び立つ。暑い空気が喉を伝って、這い登る。ソーダ水は熱気をおさえる。黒いマントを隙なくまとった十四代目の瞳は帽子の影で見えない。
「…答えになっていない」
 ライドウの唇だけが三日月のように細く笑っている。