屠る為に






 畳の上でぎりぎりと踊る爪が憎らしい。所詮この世のどんな痛みさえ自分を救ってくれるわけではないのだから。いっそ壁に立てかけてあるあの太刀で首でもかっきってくれるならば。(誰が?)
もちろんあの愛しい人が

 さて探偵は月明かりを浴びて扉によっかかり、悶え苦しむ少年を見ている。少年の美しい桜色の爪が畳をがりがりとひっかき、い草がはねる。爪ははがれないが、あまりの力の入れように歪んでいる。爪は力を入れすぎて真っ白になっている。なだらかな背中は力が張り詰めていて美しい。首筋は滑らかでゆるやかな曲線だ。突き出た背骨には口付けをしてやりたい。
 喘ぐ喉は高らかで、探偵は少年を愛する。額に浮かぶ汗すら、眉間による皺すら、苦痛にまぎれて眼光の曇った目すら。とにもかくにも少年は美しい。うす曇の灰色は絶望に似ている。
 探偵は喋る。
 怒り狂うくらい悲しい事っていうのは雨の日には起こらないものさ。そうだね、雲ひとつない晴れた日か、うす曇の日に起こるんだよ。お前の目みたいな空の日にさ。お前の目は絶望に似ているよ。底なしの絶望だ。生きているうちで味わう事が一度きりしかないような、絶望だよ。お前を見ていると俺はもうこれから先生きていけないんじゃないかって時々不安になったね。お前の目は灰色の、目が痛くなる色をしていたからさ。知っているかい、灰色の空を見るとさ、ちらちらと光が泳いでいるんだよ。それはおたまじゃくしの出来損ないみたいな細く長いしっぽを持っていてね、視界を埋め尽くすほど泳いでいるんだよ。目を閉じる事も出来ないで、ずっと見つめていたのさ。ねぇ、聞いておくれ。聞いておくれよ。俺は決してお前を憎んでるわけじゃない。憎んでいる訳じゃないんだよ。仕方がなかったのだから仕方がないだろう。
 探偵は無表情で喋り続けている。人好きのする愛嬌のある整った顔は夜の闇の中酷く冷徹に見えた。いつも微笑む顔ばかりを見ていた少年にはなおさら。
 少年が喘いでいる。切れ切れの吐息で上手く息が出来なくなったときみたいにどんどんと息を吸い続ける。目から痛みからかよくわからない涙が流れ出しそうだった。少年は畳張りの床に這い蹲り悶え苦しんでいる。
 なぁ、ライドウ。お前はライドウなのだから立たなくてはならないよ。その太刀は俺が握ってお前の首をはねるためにあるのではなくて、お前が握って悪魔を屠る為にあるのだから。ねぇ、ライドウ。悲しみや哀れみや苦痛なんか必要がないんだよ。そんなものはお前から正確さを奪うだけなのだから。何かを守る者にね、一番必要なのは情熱かもしれない。愛着や、憧憬や愛情や幸せかもしれない。でもね、ねぇ、でもね。
 少年は夜の闇の中輝く月明かりを見る。恐怖には縛られていない。ただ苦痛が己の身をさいなみ、そしてそれが何の救いにもならないだけだと知っているばかりだ。自分の瞳の色が絶望に似ているからなんだというのだ。絶望は甘やかで美しい。抜け出す術もないということは休息と同じだ。何よりも少年を苦しませるのは、何も遂行できなかった己自身であり、そしてそれを責める声が絶望へと少年を陥れない事だった。あの太刀は敵を屠る為に、害なす悪魔を屠る為に。
 お前にはそんなものなんて必要ないんだよ。お前に要るものは完璧な戦術、誰をも欺く事が出来る話術、表情、冷徹さ、すばやく天秤にかけどちらかを選び取る能力、迷わない事。そういうものだよ。そうしてそれは、愛情や愛着や情熱や憧憬なんかとは一線を画しているんだ。こんな事を言った後でなんだけど、俺は本当にお前を憎んでいるんじゃないんだ、ただ。
 ただ。
 少年は喘ぐ。苦痛は体中をさいなむけれど、身体に欠陥があるわけではない。頭はさえてばかりで、何処にもいけない。苦痛はどんなに酷くても自らを救うわけではない。眠りからもたらされるゆりかごは今だ訪れない。
 ただ罰しない事だけが、お前にとって一番辛いとしっているからさ。
 苦痛は何の救いにもならない。探偵は探偵社の椅子の上で太刀によって首を掻っ切られ沈黙している。それを行うのは少年の役目であったが、少年は抵抗し、そうして屈服し実行した。

 いっそ少年は自分の目を抉りとりかった。けれど苦痛は何の救いにもならない。ただうずくまり苦痛をやりすごすしかないのか、それすらもわからない。どこへ向かえばいいのか、任務さえやりとおせないのなら何をすればいいのか。どこへ向かえばいいのか。苦痛は己をさいなむばかりだ。あの太刀は、あの太刀は。
 悪魔を屠る為に。
 帝都に害なす敵を屠る為に。
 この手に握られるためにあるのを、知っているばかりだ。