この世界では息をする事も儘ならない





 世界の話をしましょうか、と美貌を崩さずに彼が言った。窓際の縁に座りながらもう一度言った。
「世界の話をしましょうか、定吉さん」
「世界とは、何だね?」
 定吉の問いかけにライドウは笑う。そりゃあ、そうですね、なんでしょう?言いながら管を弄ぶ指先は細く白い。銀色の管は丸い取っ手のついた機械的な形をしていて、何かのボルトといわれれば納得できてしまいそうだ。安っぽくはないが、さりとて神秘的でもない。
「ここにある、世界の事なんでしょうよ」
 多分、と付け足す少年のほうがどちらかといえば神秘的といえるだろう。人と見間違える事の出来ぬほどの美貌だ。陶器のような白面、ついた両目は墨でも入れたかのように綺麗な形で、瞳の薄灰色は定吉に曇った銀を思い描かせた。ちょうど彼が弄んでいる管の、くすんだ色だ。
「君の見える世界と、我々のそれは隔たっていると思ったが」
 見ているものが違いますからねぇ、と少年は特にためらいもなく肯定した。
「たまにはすり合わせませんか、守るものは同じでしょう?」
「機能しているなら話し合いの余地はないと判断する」
 冷たいですねぇ、と喋る口調は彼の常には似ずにやたらともたついている。
「貴方がたが守るものは人ではなく国家でしょう?国体でしょうか?」
 清国さえ欧米列強は呑みこんであの国を分割統治してしまっている。北はロシア、西からは欧米列強が待ち構えている。日本が今まで見られなかったのはそこに取る価値も無かったからだ。世界を食い尽くそうとする列強は残り物を探している。日本などほんの一ひねりだ。富国強兵、真の先進国、日本やァ、すすめ、すすめぇ。
 鳴り響く鐘は誰の為に?
「否定はしないが、君が言えることではないだろう」
「まさしく」
 魔から帝都を守るのは、任されたゆえ。やんごとなきお方、国家の現人神からヤタガラスへ、ヤタガラスから葛葉へ。魔から帝都を守るのは人の為ではない。ひとえに名の為、葛葉の為。
「言ったではありませんか、同じものを守っているのだと」
「国家威信か」
「さぁ、どうでしょう?」
 文明開化ももう遠く、明治維新ははるか昔、近代化、合理化、大波は押し寄せてうねり、うねりさえ呑みこんで続いてくる西洋の奔流。捨て去られたのは迷信、呪法、護法。困りものなのですよ、と少年は縁を降りて定吉に近づいて言う。
「鰯の頭も信心から。あれでなかなか効くものです。近代化は闇を駆逐しましたが、同時に呪いも奪い去ってしまいました。」
 わだかまる澱は簡単に噴出すようになってしまった。そのための葛葉、その為の任務。帝都を地盤にして政府は立つ。守っているのは人ではない。帝都そのもの、そしてそれに付随する実体も無い国という幻想。あぁ、まったく、と少年はため息をつく。
「骨が折れるのは別段構いはしません。」
 修行よりも格段に楽が出来ています。
 定吉は少年の言葉にふと探偵の姿を思い描いた。この少年があの探偵の下、大人しく暮らしていることが信じられない。管はくるくると少年の指の間に収まっている。
「生きていくのも楽になりました。開国前の話など聞き及んでしかいませんが、呪いのせいで葛葉は酷く短命だったのですよ。江戸は良く出来た土地でしたから」
 管狐、飯綱使い、狐憑き、信太の森の恨み葛の葉、葛葉は悪魔を操る。魂魄のままこの世に存在し、肉体がなくてもなお生きる人間。それはすでに異形だ。
「まるで君たちが人間ではないような言い草だ」
 定吉の言葉に少年は取り合わなかった。
「近代化は闇を掃いました。瓦斯灯は夜道を照らし、電灯は赤々と部屋を暖めます。暗闇の怖さなど人はわすれてしまうでしょうねぇ」
 でも
 少年がぴたりと管を回すのをやめた。人差し指と中指の間でちらちらと光っている管の中身は悪魔だ。悪魔の姿を定吉は見たことがないが、少年を見ると納得をする。異形のものはいる。確実に居る。
「押し込められたものは噴出すでしょうね、いつか」
 闇を掃い、まじないを掃い、異形を掃い、国家を守る。国家威信にかけて、富国強兵、日本や、すすめ。虐げられるのは何だ。人か、異形か。どちらもか。
「まぁ、何にせよ、生き辛い世界ですねぇ」
 時代ですかね、と少年は笑う。定吉もつられて笑ったが乾いた笑いにしかならなかった。定吉さん、と少年は呟く。
「次はないですよ」
「忠告痛みいるよ」
 全てのかたはついた。探偵を利用したツケはどうやらとんでもないところで回ってきたらしい、と理解は出来たが気持ち悪さはぬぐえるものではない。その管が開いて襲われたとて自分は抵抗できないだろう。
「息もしづらい世の中にきっとなって行きますよ。お互い大変ですね。」
 笑って、少年は踵を返した。笑うその様は夜の風情と相俟って定吉の背をすくませた。瓦斯灯で夜を追い払ったなど人間の思い上がりだと思ってしまいそうだった。
 ではまた、という言葉に、定吉は今度は昼間に会いたいな、甘味でもおごろうとなんでもないように片手をあげて返した。
「せめてものお詫びだ」
「えぇ、では楽しみにしています」
 少年の気配は人ではない、と夜の闇は定吉にそう思わせた。あれが、あの探偵の下では大人しいというその事実が定吉には怖いもののように思えた。自分が探偵ではなかった幸運を思う存分喜ぶとしよう。窓から見える瓦斯灯の明かりはいかにも弱弱しく揺れて今にも消えてしまいそうだった。