こえとからだ





 白く細く美しい指が柔らかに身体の前で組まれている。その指は鳴海の後ろにいる学生服の少年が組んだ指だ。ゆったりと組まれて本当に柔らかく、振りほどくのは簡単に思えた。実際簡単なのだろう。ねぇ、ライドウ、と囁いて身体を前に動かせばきっとこの組まれた指は簡単に解けるのだ。
 どうしてこんな事になったのだろうと、鳴海は考える。

 異形のものに対しては異形で対抗するしかないように、悪魔を倒すには悪魔を操らなければならない。まぁ、科学というのも一種の悪魔ではあるだろう。構造が違うだけの話だ。悪を倒すのは正義ではない。そもそも悪などは存在しないし、悪と呼ばれるのはただの害にすぎない。害を払いのけるのは正ではない。害虫も益虫も等しく虫だ。それと同じだ。
 人間という生き物にとって、悪魔は害であり、ライドウは益だというそれだけだ。そうして鳴海は何故だか、人間という生き物の代表、みたいな大層な気分になる事があった。益として生きているライドウを哀れむ事があった。どうしてお前は帝都を守るの?と聞いてみたいと思うことも。けれどそれは鳴海にとって覗いてはならない場所を覗き見ているにふさわしい背徳感を覚えさせた。
 そういう風に生きろといわれたからだ、と答えるのではないかと想像するのが怖かった。その姿はかつての自分に瓜二つのようにも思えた。信じるものは何?何をもってして、その姿勢を貫く?国のためか、ヤタガラスのためか、人々のためか、平和のためか、それとも自分の存在意義か。
 ならねば生きていけなかったのか、そうなるように仕向けられたのか、お前はどう思っているのか、恐怖や焦燥感とともに疑問は喉の奥から突き上げてくる。その衝動とは別に、ではお前はどうなのだ、と囁く声もした。
 お前はそうであって欲しいのか、それともそうではない事を望んでいるのか。
 過去の回想の中で優しげな老人がいう。お前はずいぶん若いねぇ。いろいろ無粋な時代だから、きっと理想を突き進むだろうね。理想に合わない現実に絶望するかもしれないね。選んだのなら戦いなさい。狂気に近い強さで、周りは見えなくなるだろう。必要な事しか選べなくなるだろう。
 だがそれは若いの、お前が選んだのだからねぇ。
 全く持ってその通りだった。鳴海はその通りに突き進んだ。自分を駆り立てのは一体なんだったのだろう。鳴海は金に困った事などなく、世相を語るのを好み、この国を変えてやるのだと半ば本気で考えていた。そうして挫けた。
 あれは若さだったのだろうか、と思う。時代の狂気か、それすらも曖昧だ。時代は常に生きているものには評価も批評もできない。
 もしかしたら、と鳴海は思う。もしかしたら自分はライドウを哀れんでいるのではなく恐れているのかもしれない。全くもってライドウはなりたかった自分自身だ。揺るがぬ決意、得意な能力、全うできる力。挫けぬ自分、間違えることのないもの。今歩むこの道は間違っているのではないかという考えがぬぐいきれない。逃げたのではないか。いいや、それはわかっていた、はずだ。
 もしもライドウが全く自己によって生き方を決めたのなら、それはもはや狂っている事にかわりないような気もした。狂気に近い強さで、まるで人とも思えない完璧さは、狂人の姿勢に似ている。ライドウは人とは違う。人と違うという事は存在を許されない事に似ている。他と違うものを見ることは世界の層が違う事だ。
 何をみて、何を考え、どうして、人を守るの?だってお前は虫のように本能に根ざしているわけではない。考え、歩み、選ばなければならない。益として生きることを何故選んだ?その決意はどうして揺らがない。だってお前はもう、人が生きても良いものだと肯定できないことを知っているはずだ。守るべきものなのかどうか悩まなかったはずは無い。
 悩まなかったのなら、俺はお前が恐ろしいよ、ライドウ。
 等しく注がれる大きな愛は無関心と同義だ。神が人を救わないのは、愛を等しく注ぐからだ。

 奇跡のような形で美しく組まれた指を見ながら鳴海は思う。どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分よりもすこし背の低いライドウの、指同様美しい口からは柔らかな声音が吐き出されいる。
 なるみさん、このてはあなたをまもるために、あなたにがいなすものをほふるために、なるみさん、あなたのために
 まるでおとぎ話のようだ。現実感のない夢物語のようだ。心の中で言葉は荒れ狂う。やめろ、やめろ、そうやって俺の為に戦うなどというな。俺に責任を押し付けるな、お前が決めろ、お前が選べ。
 組まれた指はやわらかで押しのければ、溶けていく綿あめのように軽く千切れるはずなのだ、それなのに抜け出せない。振りほどけない。声も出せずに、ライドウは囁き続ける。
 めまいがする。
 けれど鳴海は思っている。本当はずっと思っていた。

 お前が決めろ、お前が選べ、そうして役目を捨ててしまえ。挫け、逃げてしまえ。俺と同じになってしまえ。