鳴海は目を覚ました途端に訳のわからない不安に襲われて、不安に襲われた事に多少不安になってしまった。思わずあたりを見回すがベッドのすぐ側にある窓からは燦々と朝の光が差し込んでいたし、昨日の夜に特に呑んだくれた記憶もないので朝の目覚めはさわやかだった。陽光が空気中の埃をふわふわと照らしている。 鳥の声が窓から聞こえてくる。必要以上にさわやかな朝の風景自体が違和感の原因だろうかと考えながら、窓を開ければ冷たい風が頬を撫でた。吐く息は白く、寒さは日ごとに厳しくなっている。一回ベッドの上で伸びをして、筋を伸ばしながら起き上がる。身体は軽い。ライドウがやってきてから妙に健康的になった生活には苦笑を禁じえない。 蛇口をひねれば冷たい水が出てくる。寒さと同じように冷たさは日ごとに増して朝目を覚ますのがどんどんと辛くなるが、それでも鳴海が起きるのは朝食の為にライドウが起こしにくるからだ。温かい方が美味しいし、早く起きろと叩き起こされるようになったのは遠慮がなくなったからだと受け取っていいものかどうか少し悩む。もしかしたら単純に尊敬すべきところを見つけられないから、とかではないだろうか。それはちょっといやだなぁ、と鳴海は思いながら、身支度を整え終えて扉を開ける。 そういえばライドウは今日は起こしにこない。 必要以上にさわやかな朝が早い目覚めを誘ったのだろうかと考えながら、テーブルの上を見ると、温かいご飯、味噌汁に、納豆、干物、つけものと、なんとも美味しそうな朝食が並んでいるし、ライドウは席についていた。挨拶代わりにへらりと笑うと、憮然とした表情で時計を指差した。見れば時刻は八時過ぎ。なるほど、早起きをしたと思ったのは勘違いからだったらしい。やけに外が静かなのでまだ人も起きはじめていないのかと思っていたのだが、多少の寝坊と言った時刻になっていた。 起こしに来なかったことも考えて、怒っているのだろうかとなんとなく気まずくて黙ったまま席につく。そこで気がついた。 驚いたようにライドウを見れば多少の呆れ顔でため息をついた。口をゆっくりと動かしてライドウは喋る。 もっと早くお気づきになるかと思っていました。 鳴海はしばらくなんと答えていいかわからなくて戸惑っていたが、それを見て取ったライドウが大丈夫、とだけ呟いたのでこちらも心持ちゆっくりと気をつけながら喋る。声が、と動かすとそれだけでライドウには伝わったようだった。ライドウは神妙な顔をして頷く。 目覚めたときの妙な不安感は朝の活気が帯びる人の気配が無かったからだ。人間の声がしない朝は妙に静かで寒々しかったのだ。鳴海やライドウを含めここら一帯、少なくとも通りの前を通りかかる人間は声を発しては居ないし、自分達に至っては声が出ないといったほうが正確そうだった。 困ったな、と鳴海は思う。何が困ったかといえば、いただきます、と言おうと思っていえなかったことで喋る事が出来ないのだと気づいた自分に、だった。
さてと困ったね、という顔をしたらライドウも眉を下げて困った顔をした。なんとも綺麗だな、とのんきにおもったがそういう問題でもない、と鳴海は思う。言葉がないとは不便なものだ。とりあえずライドウの作った朝食を食べてしまおうと箸を伸ばす。唇だけでゆっくりといただきます、といえばライドウは了解したようにどうぞと唇を動かした。 食卓は食器のぶつかる音しかない。常ならば今日はどうするのだとか、鳴海さんは今日はお早いですね、などと言った嫌味や、でも暇だしね、と言った本当にどうでもいいような他愛ない会話が出来るのだがそうもいかない。黙って朝食を食べ終えるとライドウは学校へ行く支度をし始めた。 今日、学校行くの? とそこらへんの紙に万年筆で記すとライドウはうなずく。鳴海の手から万年筆を取って、さらさらと書いた。 調べるために そうなんだ、と鳴海は思いながら、ライドウの字の美しさに感動をしていた。調べるためにというのは筑土町一帯にしかこの異常事態は起こっていないのか、それとももっと広いのかを調べるために、なのだろう。しかしライドウの字は美しい。よく考えるとライドウの字をまじまじと見たことが無かった。綺麗な字だなと思う。整っているのではなくて多少癖があって、調べるのるなどは丸のところがくるくると回っているのだがそれも妙に愛しいと思う。いってらっしゃいと書くのも面倒くさく、肩に手を置いたら、ライドウは頭を下げて探偵社を出て行った。
昼日中、さてどうしたもんだろう、と鳴海は椅子の上で背筋を伸ばしながら考える。出歩いてもよいし、ライドウが調べるために出て行ったのだからそれをまねても良いが、どうにも気がすすまない。ライドウが調べてくれるのだから別に自分が調べなくても良いのかもしれない。さっき戯れにラジオをつけてみたがざらざらとするだけで何も流れては来なかった。唯一時報だけが時を告げ続けていた。 電話番もしなきゃいけないし、と思ったところでそんな番は今はいらないのだという事に思い至る。電話が来ても自分達は声を発して返事をする事が出来ない。暇だ。全く暇だ。鳴海は机に突っ伏す。 静かすぎて、逆に落ち着かない。一人で居るという事はよくない事だな、と思った。独り言で自分をごまかす事も出来ない。あぁ、そうだ、確か読みかけの本があったはずだ、と鳴海は思い、赤い背表紙の本を探し出す。 本棚の上から三段目、端にそれは収まっていた。ぱらりと開けば新しい紙の匂いがした。 私のたたかい。それは、一言で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお体裁に対するたたかいです。ケチくさい事、ケチくさい者へのたたかいです。 数行読んだだけで気が滅入って読むのをやめたくなったので、その衝動にしたがって鳴海は本を閉じた。喋れないという事はよくないな、と思った。一人で居るのと同じくらい良くない。喉の奥で読んだ言葉たちがぐるぐるとわだかまって息も出来なくなりそうだ。こんなときは一人ではいたくないものだ。誰かと笑いあっていたいものだ。 たたかい、戦いとは何だろう。自分がするものか、ライドウのするものか、皆等しくするものか。まぁ、どれだって良い。要は自分が楽ならば良い。 そこまで考えて鳴海は首をひねる。喋れないという事は本当によくない事だ。言葉でごまかせない。心がむき出しになっているような気持ちになる。ともすれば言葉は鎧か、ともすれば迷路か。言葉がなければ、声になれなければ、さて思考の迷路からも抜け出せないなぁ、と鳴海はため息をついて思った。一日は長い、と久しぶりに感じる。 ライドウは早く帰ってこないだろうか、という気持ちさえ言葉にならず心に降り積もるばかりだった。
ライドウは思いのほか早く帰ってきた。ライドウを待ってうだうだしている途中でタエがやってきたのも鳴海にとっては嬉しい事だった。タエは、バタンと大きな音で扉を開いて(異様なほどに静かなので、物音が良く聞こえる)やってきた。身振り手振りから非常にあわてているという事は理解できた。唇をぱくぱくと動かしてそこではっと気づいたように、手元の手帳に文字を書きつける。 −喋る事が出来ないの、調べてくれる? 鳴海はタエにまぁ、落ち着いてよ、と口を動かして笑いながらソファに座ることを勧めた。そこでようやくタエは鳴海も喋る事が出来ないと気がついたらしく、半ば腰を抜かすようにソファへと座った。 とりあえず鳴海はタエが落ち着くのを待つ為に台所で珈琲を淹れる。豆を挽く音も湯が沸騰する音も、耳に良く響く。食器を鳴らしてタエの目の前に置けば、状況を説明するための紙がいくつか鳴海の前に突き出された。 銀座の街全体がそうなっている、らしい。最初は大した事でもないと思っていたのだが、静寂を保ったまま進む路面電車と筑土町についた事すら気がつかなくて乗り過ごしたのとが相俟って取り乱したのだと書かれていた。いくら視界があるからと言っても、聴覚は視覚に次いだ情報収集器官なのだ、不安になるのは鳴海にはよく理解できたし、先ほど自分も本を読みながら感じた事の一つではあった。 探偵さんも喋れないとわかったら安心してしまった、とまで書かれていてへらりと笑ったら、タエもまた微笑み返した。探偵社という文字をさして、怪奇専門、と書いた紙を渡す。そうねぇ、と思いながら笑っていると、ライドウ君は?とさらさらと紙に書いた。 今、学校と書きかえす。ライドウ君のほうが頼りになりそうだったのに、とでも言いたそうにかすかに潜められた眉に気づいて苦笑すると、途端に弁解するようにタエは首を振る。まぁ、タエちゃんが思ってることもまったく見当はずれというわけではない、というよりもむしろ正解に近い。 路面電車まで静かだ、という事は沿線一帯はこの現象に見舞われているのだろう。困った事だ。タエはしばらく無言で珈琲を飲んではため息をついていたが、気が済んだのか立ち上がった。もう帰るわ、という意味なのか軽く手を振ってドアを開けたので鳴海もふりかえす。午後と夕方の合間みたいな時間だな、と伸びをしながら窓を見て思う。傾いた陽光はしかし赤くはない。 珈琲カップを水場まで持っていて、暇なので洗い物をした。水が冷たいなぁとため息をつきながら洗っていると足音がしたのでライドウだな、と鳴海は思った。それを裏付けるように特にノックの音もせずに扉が開く音がした。あらいおわったカップの水気を切って食器棚にしまったところで訝しげに台所へと顔を出したライドウと目が合う。 ライドウの目が更に大きく丸くなったので、驚きによるのだろう、鳴海は笑ってしまった。どうだった、とゆっくりと聞けば、ライドウは頷いて紙切れを差し出した。 そこには箇条書きで、少なくとも銀座を中心に狭くない範囲でこの現象が起きている事、領域から出れば喋れるようになる事、ただ声が出ないだけであること、が記されていた。ほう、と思いながらも報告書でも作ろうかとタイプライターを取り出す。ライドウはそれを見届けて、台所へと入っていった。詳しい事を聞こうと思ったのに、と言おうとして、それには酷く労力を使うのだと思い至った。紙切れから多少事実を膨らましては書くことにするか、と鳴海は思った。 多少の誇張はヤタガラスだって承知の上に違いない。 今日のご飯何ー?と聞こうとしてまた声がでない事に鳴海は気がついて、なんとも不便だ、と今日何回目かもしれないため息をついた。
それから数日、ライドウはどこかへ出かけては疲れて帰ってくるようだった。黒猫との疎通には喋れない事はとくに問題にならないらしく、鳴海にはうらやましい限りだ。こちらなどは遠くから声をかけるときなど、毎回息を吸っては話しかけようとしてしまってため息をつくはめになるというのに。喋れないとは本当に不便だ。 かつて口から先にうまれたんじゃないか、といわれた事がある鳴海とちがってライドウは喋る事が出来ないという事実をあまり苦にしていないように見えた。以前ならその鉄面皮の下で何を考えているのだが全くわからなかったのだが今は疲れているらしいという事はわかる。変わったことも多少ある。 朝、自分を起こすときに声が出ないのでライドウが手を出すようになった。それが半端なく痛いので起こされる前に起きるようになった。文句をいう時の決まって同じ動きをするようになった。(口を尖らすとか、そのような本気とはとれないような表情の崩し方だ)おはようとか、ありがとうとか、そういう言葉の代わりに笑う事が多くなった。 だからなのかはしれないが、ライドウの表情が多少わかるようになった。眉をひそめたりするのはそれは前からよくわかってはいたのだが、最近多少疲れているのだなとか、今は嬉しいらしい、というのが口の端の綻びやあまり動かない眉からわかるようになった。即席の意思疎通の為のいくつかジェスチャー(例えば食卓でしょうゆとって、などという時の下らないが即時性が必要なもの)と、紙に書く文字の速度が速くなってきた頃にライドウはさらさらと言った。(言った、というかこの場合は書いた)
−銀座に行きましょう
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私が愛するものといえば、それはもう些細なものでしかありませんでした。寒椿の涼やかな匂いや、朝起きるときに感じる冷たい風、霜の綺麗な感触はそれはそれは私を慰めてくれました。聞こえる小鳥の声は鼓膜を撫でます。吸い込む空気は肺を冷やします。日の差し込んだ畳の上に寝転んで薫る藺草は本当に良いものでした。 路地を通る足音や、囁き声、猫の鳴き声や、生活や生き物の音は本当に私を慰めてくれたものです。
そしてそれを奪ったのは、あの、鉄がきしむ音でした。鉄が軋む音。ぎりぎりと鼓膜を破るその音は私の頭蓋の中で狂乱じみた氾濫を起こします。やってくる鉄と油の匂い、昼間に鳴り響くそれはやがて空想の中で夜さえも私を襲うようになりました。私は耳を両手で必死に押さえ叫んだり、油に浸した脱脂綿を耳に入れてみたものの、それさえ私の悪夢をはらってくれはしませんでした。 それは油と鉄のさびた匂いに馴染まぬ冬の夜の事でした。私は耳の奥でうなり続ける頭蓋を突き破るような轟音と夢中で戦っておりました。それすらもここ最近の常であり、半ばあきらめてもおりました。常に耳の奥でなる耳鳴りに何時しか馴染んでしまうようなことが私の身に起こりはしないだろうかとそれだけを切望するような何刻が過ぎていきます。 私はふと寒椿に混じる生臭いにおいをかぎました。それは海の潮の匂いのような、水が腐っていくような、虫の内臓のようなそんな匂いでした。柔らかな、ペルシア渡りの絨毯のような毛先が私の首筋を撫でます。きちり、と唾液の粘る音と、歯のなりあう音が聞こえました。女、と匂いは囁きました。女、お前は静かに暮らしたいか、幸福に暮らしたいか。吐き出される悪臭はしかし油の匂いとさほど変わることはありませんでした。私は頷きました。静謐の中で暮らしたい、その中で幸福をかみ締めたい。悪臭が一つ何かを言うたびに、私が一言喋るたびに、潮のような生臭い匂いは強まり、打ち寄せる波のような冷たさが足先から押し寄せます。冷たい波はうねうねと粘りやがて全身を包みました。悪臭は言います。近代化とは、まさにまさに、都合の良い。張りのあるその声はやはり悪臭を撒き散らしていました。
泥のような粘りの中で私は静寂を味わいました。外界から齎される何もかも裂いてしまうような音は訪れず、自らの鼓動や呼吸音を聞くばかりのそれは私を本当に幸福にいたしました。 しかしそれはつかの間の安寧に過ぎませんでした。泥は空気よりもゆっくりと、しかし確実にくぐもった鈍器のような音を私の耳に運びました。耳の中に隙間無く詰め込まれた泥は鉄の軋む音を私の内耳へと、鼓膜へと、その奥のぐるぐると渦巻いた三半規管へと叩き込み、それはやがて視神経さえも犯し、脳髄の真ん中へと突き刺さるようになりました。悪臭があたりにたちこめ、泥のような粘ついた感触に嫌悪感を覚える事、私は自分の決断の愚かさを知りました。あの時それ以外、一体どんな決断があったのか、見当もつきませんが、それでも私は私の決断は愚かであったと思いました。私の愛していたものは本当に些細なものでしかなかったというのに。 泥は私の耳から、目から、口から、あらゆるところから入り込み、体中のそこかしこから潮の匂い、腐り果てた血液のような匂いがするようになりました。いっそ気が違ってしまったら、狂えてしまったら、どれほど楽であったでしょう。泥を通じて柔らかな轟音は依然と脳髄へと侵入し続けておりました。時折激昂が私に訪れ、全身を使って暴れても、轟音は酷くなり、泥は私の力を無限に吸収し続けるだけでした。そのうち私は、私の体の中に侵入し続ける泥と自分の体の区別がつかなくなり、轟音が絶え間なく私の体を通り抜け、意識さえ溶けようとした頃に、ふいに泥は引いて行きました。 そうしてその時感じたものは、鉄の軋む音にも似た叫び声と、暖かな腕、かすかに香る柔らかい桜の芳香でした。 私が愛したものは、これらの、本当に些細なものでございました。
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