うそほんと





 逆光で鳴海の顔は良く見えなかった。鳴海の口ばかりが滑らかに動くのが見えて、ライドウはどうしてこんな話になったのだろうと考え込む。そもそもこのような話にライドウはかけらも興味を抱かなかったし、聞いたからといって何が起こるわけでもないのをわかっていた。
 ゴウトはどこかの陽だまりでまどろんでいるのだろう。今は見当たらない。そんな事をぼんやりと考えていると、顎をつかまれて上を向かされる。目の奥の光は冷たい。鳴海は口を滑らかに動かしている。
「ちゃんと聞いてるの?」
「えぇ、もちろん、ほどほどには」
 いやみなやつ、と忌々しそうに呟く口をふと塞いでしまいたい衝動に駆られるのだけれどそれはもちろん何の意味もない事だ。ライドウは、えぇ、しっかりと聞いていますよ、と言いなおした。鳴海は冷たく笑いながらもう一度、いやみなやつ、と繰り返した。
「まぁ、いいさ。そういうところがそっくりだよ、俺の母親は父親にそんな態度ばっかり取っていた。俺は父の子供ではなかったけれど、父はそれなりに愛してくれたさ。」
 それはよろしい事で、と返すと顎にかけられた指が力を増す。痛みにこれ見よがしに眉をしかめると鳴海はいっそう面白がっている様子で笑った。
「母は父を嫌い、俺を溺愛した。気持ち悪くなるほど愛された。子供が喜ぶだろうからといって、吐くまで口に甘いお菓子を突っ込まれ続けている気分だったよ。平たく言って最低だったね。父はやがて家に寄り付かなくなり、俺は母と二人で家に残された」
 悲惨だったぜ、と鳴海は笑う。口の端からごとごとと笑いがこぼれていく。ライドウはその姿を見ながら、抱きしめたい衝動に駆られたのだけれどやはり何の意味もない事だ。
「それは今でも変わらない。母親は俺がいまだ陸軍にいると思って手紙をよこす。俺は時々会う。あの女が頭を撫でる手が冷たく白く気持ちが悪い。雰囲気が変わったという、それは俺には似合わないと言う、ため息をついて愛していると言う」
 軍人ならば、と鳴海は吐き捨てる。
「軍人ならば、このご時勢に自由に会える訳がない。本当に下らない女だ。その手紙だ。俺は手紙を返す。愛する母様という書き出しでだ。」
 鳴海は勢いをつけ喋る。嘲るべきだろうとライドウは思った。それを望んでいるだろう、と確認した。鳴海はほかでもない自分に嘲笑を要求している。顎をつかむ手も、机に自分を押し倒す腕も力が強まるばかりだった。
「貴方は母を愛していますよ。貴方の母が貴方を愛するやり方とおそらく同じように」
 けれどライドウは期待にはこたえなかった。鳴海の期待はある種の真実ではあっただろうがただの餌に過ぎない用にライドウには思えた。もしくは交換条件の、思い出だ。鳴海は当てが外れたように眉間に皺を寄せた。蔑んだ目でライドウを見てそうだろうよ、と吐き捨てた。
「俺の母の話をしましょうか」
 ライドウの言葉に鳴海は不意をつかれた顔をした。嘲笑しなかった代わりにライドウは、鳴海が知りたがっているであろう過去の切欠を渡す事にした。
「お定まりのようですが、俺は望まれた子供ではありませんでした。むしろ母と父の二人の間に無粋にも割って入った悪魔のような物でした。父は俺を憎みましたし、母は嫌悪し恐れてさえいるようでした」
 それは災難だな、と鳴海はどうでもよさそうに返す。ライドウは、いいえ、と笑った。
「俺を生んでから数年して、母は肺を病んで床につきました。ある日、母に折鶴を持っていった事があります」
 千羽鶴ってあるでしょう?と笑う凄惨さは鳴海には綺麗なもののように思えた。憎らしいほど整った顔に、憎しみと不快感しか抱いていなかったというのに。
「渡そうと近づくと母はどこから手に入れたのかわからない刃物で、俺を殺そうとしましたよ。病を患った身体はそれをなしえなかったですけど」
 ふぅん、と鳴海は呟いて興味を失ったように顎から手を放し、ライドウから離れた。ライドウは学生服を埃をはたくような仕草で叩いた後に、鳴海の顔を覗き込む。そして、平行世界ってあるでしょう?と突然言った。鳴海は虚をつかれながらも、そうだね、と同意する。
「平行世界とは薄い層が何枚も何枚も重ねられているものだと思ってください。隣り合う層同士はほぼ変わりがありません。隣の世界では、貴方の髪の色だけが違う。その隣では今度は髪と目の色が違う、という風に差異が大きくなります。離れれば離れる程、違いは大きくなるわけです」
 突然の講釈に驚きながらも、そうなんだ、と鳴海は返した。そうなんですよ、とライドウは朗らかに笑う。ご存知かと思いますが、と笑う。
「俺の名前は葛葉ライドウです。ライドウはカナですが、ここの雷堂は漢字で書くでしょう?という事はそもそも起源からして彼と俺とは別なのかもしれません」
 そういった途端、自分に興味が薄れていくのがわかる鳴海の素直さは、自分だけに出ているのだろう、とライドウは思った。自分が異世界の人間だから彼は話すのだ。元からこの世界に居らず、すぐに消えていなくなる人間だからだ。まぁ、容姿も役職も年齢もこれほどまでに似ているという事はやはり同一性は否定できないのでしょうが、とライドウは微笑ましく思いながら付け足す。
「けれど、違うのだから、例えば彼の母は病気ではなかったのかもしれない。折鶴は持っていったのかもしれない。母の刃は彼の顔を引き裂いたのかもしれない」
 探偵社の南向きの窓は陽光を取り込んでは鳴海に圧迫感をもたらす。鳴海は歯軋りをしたい気分になった。ライドウはまるで自分の事ではないかのように淀みなく、感情も交えずに母を語る。
「えらく不確定な話だな」
「本当の話である分、貴方より評価されてしかるべきだと思いますが?」
 はは、と口から乾いた笑いが漏れた。
「そりゃ当然気づくよな、そんな話をし出すから、気づかないほどそっちのライドウは無能なのかと思ったよ」
「貴方の卑怯さに感動しただけです」
 ライドウは肩をすくめて言い放った。鳴海のいう事がある種の真実であろう事は容易に想像がついたが、今でも会うという事はないだろうと思っていた。何のために身を隠し、何の為に名前まで偽ったのか、その意味がなくなってしまう。鳴海は舌打ちをして、嫌味な奴、とまた呟いた。
 ライドウはそれを聞き流しながら、所長机の上の真っ白な手紙を手に取った。母親からの手紙、と鳴海が嘯いたものだ。一瞬中身を確認したい誘惑に駆られたがそれはやめておいた。ライドウが雷堂と違う事を鳴海が落胆しているのと同じようにライドウも鳴海に期待などしていない。鳴海はライドウが手紙を読むのを咎めはしないだろうとライドウは思ったが、思っただけだった。
 口をふさいでも、抱きしめても、手紙を読んだとしても、意味はない。陽光は暖かく、世界は変わらず平和に思えた。