親子





 十四代目葛葉ライドウよ
 木の虚に響くような声がした。男はその声に傅き、並べられている銀の管と大太刀を取った。
 十四代目ライドウよ、お前の任務は影の抹殺だ
 男は何も言わずにただ頭をあげた。それこそが長年望みしかし実現できるはずもなかった願い。男は喜びよりも何よりも勝手に力の入る手を諌めるので精一杯であった。腰にさした太刀の鍔がかたかたと鳴る。

 その日の天気を男は未だ覚えていた。それは雪も降ることの出来ないほどの静寂に包まれた冷たく痛い日で、庭の椿はその花びらを時が止まったように凍りつかせていたのだ。そして男の愛した女は子供を産み落とした。男も女も胎児を愛おしくは思わなかった。子は自分達二人の融かされた飴のように緩やかな幸福に割り込んできた恐るべき侵入者であり、二人の罪の告発者であり密告者であった。子を成す事は葛葉にとっては大罪ではなかろうが、男と女の家にとっては罪であった。女はまだ自らの腹の膨らまない内から胎児を殺そうと腹を殴り、高所から落ち、臨月間近では心の臓が止まるような冷たい水の流れに腹をさらした。しかし子は胎盤にへその緒で繋がれ、なにかにしがみつくように決して流れることはなかった。

  男も女もおびえ、憎んだ。その幸福の侵入者を、罪の密告者を。男と女は怯えながらも生れ落ちた子を見た。子はどちらにも似ていず、それはさらに二人の恐怖をあおった。子は、生れ落ちたばかりから目が覚めるほど美しく、人間とは思えなかった。生れ落ちた子を見て男と女の母は嘆いた。これは本当にお前達の子なのかともう一度問うた。男と女はうなずいた、うなずいたが信じられはしなかった。どう見ても子は自分達には似ていなく、女は腹から這い出たやわらかく生暖かい生き物を嫌悪さえしているようだった。はやく死んでしまえと、首を切られて死んでしまえと、女は子に名をつけた。男と女は兄妹であった。子は、歳の離れた末の子となった。
 男は子と当然ながら血が繋がっていた。(しかしいくら考えて、事実がどれだけ男と子が親子であると男に訴えても男には子が自分の子であるということが信じられなかった)ゆえに子を探すのは男にとって容易い事だった。感応すればどこにいるか、おぼろげながらつかめるものだ。最初に子を男が見つけたとき、子は甘味屋でなにやら男と喋っているようだった。ふと、子と喋っている男と目が合う。まずいなどと思う前に笑みが広がることを抑えられなかった。男の目線の先で二人はすばやく滑らかに支度をしていく。
 ばかめ。おそい。
 しかし男は急ぐ気はなかった。今からどうに逃げても追いつく自信があったからだ。しかし子と子に相対している軽薄そうな男が扉を出る前に男は甘味屋にたどり着いたのだった。男は扉を開ける。そして子がどのような顔で自分を見るのだろうかと思った。憎しみか、恐れか、怯えか、心乱されて足元をすくわれろとおもったのだ。しかし子は笑った。へらへらと軽薄そうな男とともにだ。男は懐の管を取り出すが、子に叩き落される。のどの奥で息を呑んで通りを駆ける子に追いすがる。
 「…あんな街中で悪魔を召還しようだなんてよっぽど葛葉は俺を許しておけないんですね」
 街の通りを走りぬけ、郊外へ出る。一面の薄野原まで来たところで子はくるりと振り返っていった。その困惑した笑顔に影がないのが男を憤慨させた。
 「なに、方法は私に任せられているのでな。あれは私の判断だ。」
 ではあなたは余程俺を殺したいらしい、と子はいった。男は子が自分を見ても何一つ思い出さないのが腹立たしかった。(とは言っても子にとって男は自分を憎む兄であり、親であり、思い出したくない記憶であり、葛葉の里の修行やその後のライドウであった日々のいろいろな記憶が男を押し流していた。その上年月は男の風貌を変貌させていたのだからそれは仕方のないことであった)
 「そうだ。私はお前を殺したい。一つ昔から。」
 名乗っておこう、と男は子に言った。子は首をかしげ、いいえそんなことには興味がありません、といって男に向かって走り出した。男は笑った。子は刀を抜く、男も刀を抜く。同じ刀、同じうち方。打ち合わせる刃も波紋まで似ていた。
 「私は十四代目葛葉ライドウだ。影を殺しにきたのさ。」
 そういって男は子の刃をはじいた。
 子は後ろへ跳躍し、ひと時考えるように刀の切っ先をゆらゆらと揺らした。薄野原でゆれる刃の切っ先は凍るほど冷たい冬の空に似ていると男はふと思った。子の姿は、やはり今をもってしても男とも女とも似ても似つかず、人間とは思えぬほど美しかった。薄野原に出るのは狐と相場が決まっている。もとより最初から子などいないのだ。あれは狐の化け物だ。妹は狐に殺されたのだ、と男は流れる思考のままに思った。狐はあざけるように笑った。
 「自分以外の十四代目のライドウに会ったのは初めてではありませんが、貴方は彼とはだいぶ違うようですね」
 「何をたわけた事を」
 ライドウでありながらヤタガラスを裏切った人間を葛葉が存在させておくはずもない。神をも殺した若輩の十四代目など存在しないのだ。それは男が十四代目として納まることにより男の歴史となり手柄となり功績となる。葛葉を裏切るライドウなど存在しない。しないと決まっているのだ。
 「…お気になさらず」
 そういって狐は男の懐に踊りこんだ。がきぃんと競り合う音がして、男は目をしばたたかせた。(いような気分になった)競り合う刀に篭る力は意識などしなくてもぎりぎりと強くなる。踏みしめた足の先の薄がさらさらと優しく鳴った。
 刀は無言で打ち合わされていた。どちらも手を引かず、抜かない。隙を見て悪魔を召還しようとはするものの、そのような隙を見つけられてはつぶされる。男は小さく舌打ちをした。二人同時に後ろへ飛ぶ。距離は一歩半といったところだろうか。互いに見詰め合った。
 「お前は、冬が好きか?」
 唐突な問いであった。狐は面を食らったような顔をして、静かにどちらでもありません、とこたえた。
 「季節に好きも嫌いもありはしません」
 「そうか、私は嫌いだ。お前が生まれた季節だからな。」
 ひそめられた眉に男は笑った。
 「お前など生まれなければよかったのだ。このようになるのなら。」
 このようにとはいったいなんなのだろうと男はわずかに思った。女が死んだことか、憎むことで歪んでいく現実だったのか、そもそもあれは過去だったのか。子が出来たのはなぜか。末の子とされた子の目線に男は常に怯えていた。怯えることを隠すように憎んだのかもしれなかった。それが愛の証だと信じて。
 男の視線の先で狐は、少年は表情を落とす。男は思う。そうさ、それを待っていたのだ。男は不意に地面をけって懐に飛び込んだ。それは密着した手元で刀を振りおろせる間合いではなかった。
 しね、と声を上げる暇すら惜しい。男は懐刀を取り出して腹を狙う。がん、と頭に衝撃がしてよろめく。柄で頭を打たれた。
 こめかみをいつの間にか握っていた鞘で殴られ、膝が抜ける。刀の刃が男を地面に縫い付けた。肩口に深く刺さる刀を少年は抜く。
 「……」
 少年は男に何か言おうとしばらく逡巡していたようだったが、軽薄な男がどこからともなく少年の名を呼んだこと契機にその言葉は永遠に少年の喉の奥に消えていったようだった。呼ばれたのはライドウという名ではなく、少年の名だということを男は覚えていた。女が子供に与えたただ一つの呪いだ。男はうつぶせで土に顔を押し付けながら笑った。それは何に対する笑いだったのだろう。己か、それとも呪いから永遠に脱しきれないであろう自分の子に対する勝ち誇るそれか。
 「…お前など首を落とされしねばいいのだ」
 男の言葉に少年は笑った。どういった態度を取ればいいのかをわかっていっているような言葉だった。
 「…では、さようなら、十四代目。先代にいびり殺されないようにご注意ください。」
 ご参考の程、と少年は付け足した。薄はさわさわと耳にやさしい。男は憎悪に焼かれている。

  女は心を病んだ。精神を病み、胸を病んだ。そして三回、身を切るような冬を越して死んだ。男は子を憎んだ。そして女を深く深く、生きている前よりも深く愛した。子への憎しみは女への愛の証と男は信じていた。男は常に子を殺す機会をうかがっていた。子は強い霊力を宿していた。葛葉の里で子はライドウ候補として育てられた。それは結果的に男から子を守ることになった。(実際のところ葛葉の修行が男に殺される事に比べてよかったのかどうかは疑問だったが、無論男はそんなことなど知らず、ただ子がむやみに上に庇護されているように見えた)
 男は子の生まれた日の事を思い返していた。しかし十四代目葛葉ライドウが生まれた日を覚えているのは皮肉にもこの男だけだった。