雨が降っていた。ぱらぱらと雲から降る雨を二人は甘味屋の中から見つめていた。男は少年の目の前に置いてある小鉢の中の大学芋を口の中に俊敏な動作で放り込む。少年は男を咎めはしなかったが眉をわずかにひそめた。それに気付いた男が、ごめん、ごめんと軽く謝罪の言葉を口にした。少年はいえ、かまいませんと静かに言う。二人は窓からぼんやりと外を眺めている。雨の日は話し声が小さくなるとどちらともなく思った。二人は囁くような声でいつ止むだろうかと話しながら、甘味をつまんでいた。(余談だが男の目の前においてあるあんみつを少年は黙って口に運んでいた。男はそれを微笑みを浮かべながら横目に見ている。) 「こんな天気だと俺はね、死ぬ事を考えるよ」 甘味屋には男と少年の他には女学生と思われる少女と親子連れが二三いるばかりで、それぞれの明日の試験はとかこぼさないようになさいなどの漏れ聞こえる会話に紛れて男の声は少年にしか届かなかった。少年はそうですか、とあまり興味がないかのように答えた。男は少年の気のない様子をあまり気にせずぽつり、ぽつりと言葉を落とす。 昔こういう天気の日にね、死ぬなって思った事があってさ。走馬燈まで見たし、すごい色味なかったけど。嗚呼、死ぬなって口から勝手に呻き声は漏れるし最後は息もできないしさ、肺が動かないんじゃなくて横隔膜とかがもうおかしいんだよ。いやあれもしかして肺破れてたのかなぁ?まぁともかくさ、野たれ死ぬのか、想像通りだと思ったの。指先とか爪先とかとても寒くてね、雨が首筋やら頬やら傷やらに流れていくんだよ。空は白くて、天国かと思った。 「まぁ、死ななかったけどね」 「当然です。仮に死んでいたら貴方はここにいないでしょう。」 幻と逃避行などごめんですよ、と少年は囁いた。少年の言葉に男は力なく笑った。ともすればとても優しい笑顔に見えた。 「だからね、こんな雨の日は自分が死ぬ事を考えるよ」 雨が硝子を叩く音は耳に優しい。とたん、とたんと鼓膜を揺らす。そして、と男は笑う。 「俺が死んだ後お前はどうするのだろうと思うのさ」 少年は小鉢に延ばしていた箸をぴたりと止めた。雨は空気を湿らせて吸い込む酸素はどこまでもやさしい。 「傲慢ですね」 「うん」 男は少年の言葉を嬉しく思った。それは予想をしていた答えで望んでいた物だったからだ。男は満足しながら牛皮食べないでって言ったのに…ともうほとんど残って居ないあんみつを匙でかき回す。少年は溜め息を付いて囁く。 「俺が先に死ぬかもしれませんよ」 「そしたらすぐに後を追ってあげるよ」 即答ですか、と少年があきれたように言ったので当たり前だろうと男は返した。何のためにもう一度全てを投げ捨てたのか、投げ捨て得た物を失って生きていけるものか。 「困りました」 少年の突然の呟きに男はなにが?と聞き返す。 「貴方が死んだ後の自分が生きていると到底思えません」 後を追うなど趣味ではないのですが、と少年は自分に言い聞かせるように呟いた後、男を真っ直ぐに見た。 「あなたがいなければ、どう生きて良いかも、分からなくなってしまいそうです。」 少年はそうはっきりと言葉を落として、不意に男から目線をそらして小鉢に箸を伸ばした。男は呆気に取られてしばらく匙を口にくわえたまま動かなかった。雨はだんだんと枯れていき、ぱらぱらとまばらに硝子をたたいている。 「どうかしてるね、お前」 「お互い様でしょう」 「そうだね」 そうだね、ともう一度確かめるように男はつぶやいた。雨、あがりそうですね、と少年は目を細め言った。硝子から覗く往来の風景は雨のせいで人影がまばらだ。時折過ぎる人間もみな傘をさしながら歩いていた。 「…?」 往来をこちらへ向かってまっすぐに歩いてくる男がいた。男が人目を引いたのは傘も差さずにこちらをじっと見ているからだ。視線に気づいたように傘も持っていない男は顔を上げて笑った。少年が不意に顔を上げ、眉をしかめた。 「追いつかれましたね」 少年は少し恨めしそうに残った小鉢の中身を見て、箸をおいた。 「気づかなかったなんて珍しいね」 男は上着を取ってすばやく着込む。 「あなたが死んだ時などというから動転してしまいました。貴方も気配に気づかないとは珍しい。」 二人は同時に椅子から立ち上がって、ゆっくりと扉に向かって歩き出した。 「お前の愛の告白にびっくりしてた」 男が財布から金を取り出しているところで、こちらを目指していた男が甘味屋の扉を開けた。少年と男はそれを見て笑った。 「見つかってしまいました」 「逃避行も楽じゃないねぇ」 少年は管を懐から出そうとする男の手を手刀で叩き落として、支払いを終えた男と走り出した。 「雨、やんでますね」 「きっと虹が見えるよ」 雲の隙間から、太陽が顔を出し始めている。
|