「…暗い、な。」 鳴海はため息をついて閉ざされてあけられる事の無い窓際に寄りかかった。目線の先にはひどく豪奢なベッドがあって、そのベッドではライドウが寝ていた。その顔は白く今まで一度も太陽の光など浴びたことの無いように鳴海には思えたし、おそらく実際にライドウが生きていた時間に比べて太陽を浴びた時間というのは少ないのだろう。 「…買い物にでも行くかなぁ」 ライドウと二人で各地をさ迷う様になってから独り言が増えたな、と鳴海は思った。今は鳴海は睡眠を必要としないし、食物もいらない。食べろといわれれば食べれるし、それはエネルギーにもなるけれど取らなくてもさほど不都合はない。生物としてとても強くなった。進化したととも取れるそれだ。けれど、と鳴海は昏々と眠り続けるライドウをぼんやりと眺めた。 けれどライドウは自分と比べてかなり脆弱だった。それは精神がとか虚弱だとかそういう意味ではなく単純に生き物としての強度を比べた場合自分とライドウでは明らかにライドウの方が遥かに死にやすい構造をしていたというそれだけだ。 「だって、お前日が昇ってると意識も保てないものね」 だから夏はほんと、つまらないよ、と鳴海は心底つまらなそうにつぶやいた。しっかりと雨戸が張られた窓の向こうからかすかに蝉の声がした。じぃじぃと蝉は鳴海の耳を打つ。この部屋は静か過ぎるのだ。何の音もしない。ライドウは寝返りを打たないし、鳴海もライドウも呼吸などしていないから呼吸音が響くことも無い。 鳴海の目線の先で死んだように(いや、実際彼は死んでいるのだけれど)昏倒している少年、つまりライドウは、朝日が昇ると意識が保てない。その瞬間は容赦なく訪れて、朝日が昇ればすなわち彼は死ぬのである。日を体にさらせばたちまち灰になるし、だから夜しか生きていけないし、普通の食物も食べられない。食べられるのは血液のみだ。つまり彼は吸血鬼とかいう怪しい代物であるわけだ。吸血鬼が実際に書物と違うのは教会や十字架を恐れないことくらいだった。その代わり護符やらしっかり効くので鳴海にはその法則性はわからない。 「あーあー、つまらないなぁ…。」 鳴海はベッドのまで歩いていく。絨毯の毛は柔らかく鳴海の足音は部屋には響かない。どこから冷気が漏れ出しているのか知らないが、外の気温とここはまるで別の世界のように違った。ライドウの顔は吸血鬼の定番といっていいのかとても青白い。 鳴海はライドウの頬に手を滑らせる。鳴海はライドウの所為で人間ではなくなったのだけれども、吸血鬼にはならなかった。何になったのかはわからないが、鳴海は血液を取らなくても生きていけるし、それどころか太陽の光を浴びても灰になることはない。だから鳴海は昼間ひどく退屈な時間を過ごしている。もっぱら死んで動かないライドウのそばでじっと時間が過ぎるのをまっている。鳴海は頬に置いた手でライドウの額をなでた。ライドウの額は冷たいが鳴海の手も冷たいのでそれは感じられない。 ライドウの頬は大理石のように白く冷たく、そして柔らかかった。少年の顔は美貌と言って良いほどに整っていてどこにいてもひどく目立った。少年は月の光がそれはそれは似合っていて(ライドウと鳴海が初めてであったのも月夜のしかも朽ちかけた教会でだった。)、まるで生まれたときから夜しか知らないかのように見えた。けれど鳴海は時折無理やりにでも少年を陽の光にさらしてみたいと思うことがあった。太陽の黄色味がかった光は月光のように少年を神秘的に見せるのではなくて、きっと健康的なそれこそただの少年に見せてくれるだろうと夢想する。 (だけど) だがそれが何になるというのだろう。そんな事をすればライドウは灰になり消えてなくなるし、自分はどうしていいか分からなくなるに決まっているのだ。 「あーあ、夏はつまらないよ、ライドウ」 退屈は思考を腐らせる。腐ることを知らないのは今のこの体だけだ。ベッドの上でライドウは息もせずに昏倒しているし、鳴海にはすべき事がない。
蝉が泣き止んで外の空気が静寂を取り戻すのとベッドの上でライドウが目を覚ましたのはほぼ同時だった。ぼんやりとライドウは目を開けて、自分を覗き込んでいる男が鳴海だと知るとため息をついた。(呼吸や、ため息といった習慣はなかなかに抜けないものらしい) 「おはようございます、鳴海さん」 「うん、おはよう」 寝起きを感じさせない動作でライドウは上半身を起こし、けほりと一回咳をした後起き上がろうとしてよろけた。鳴海はよろけたライドウを抱きとめてベッドに押し戻した。 「なんか調子戻ってないみたいだし、今日は横になってれば」 「横になってても、別に治りませんよ」 まぁ、そうだけどさぁ、と鳴海は軽く言った。ライドウのここのところの不調の原因は単純に物を食べていないからだ。かといっていまどき血液の調達などどこですればいいのやら検討もつかない。献血車を襲うという手もあるだろうが、人目につくやり方は避けたかった。人一人襲うのも割りと手間なのだ。 「俺の血でも飲む?」 ほらといって鳴海が指を突きつけるとライドウは少しの間躊躇をしてから鳴海の指を口に含んだ。鳴海はいつもライドウの口腔が赤く色づいているのが不思議だった。血液など大して流れているはずもないのに。鳴海の冷たい人差し指はやはり冷たいライドウの口腔を探りながら犬歯を見つける。それはとがっていて、触ればすぐに指先が切れて血がにじんだ。 「…っ…」 傷はあっという間に治るので人差し指に牙は刺さりっぱなしだった。じくじくとした小さな痛みが指先から脳に伝わるのがわずかに疎ましい。いっそ痛覚もなければ、何を思うことも無いというのに。ライドウはしばらく人差し指にすきに舌を這わせると、あっさりと牙を抜いた。 「…まずい」 「人からもらって言う台詞?」 「だって仕方ないじゃないですか」 それだって、完全に調子が戻るわけじゃない、とライドウが言う。時々鳴海はライドウの横顔に自嘲めいたものを感じる事があった。鳴海のほうがよほどライドウよりも年を取っていないのに、ライドウはこの体での生き方を知らないように見えた。けれどそれは錯覚で、ライドウは自分を嘲ってはいなかった。鳴海は自分がそう思うのはおそらく自分が彼を救ってやりたいだなんて傲慢にも思っているからだろうと思っていた。 大理石のような頬を鳴海はもう傷が塞がっている人差し指でなぞった。ライドウは一度くすぐったそうに目を閉じて笑いながら鳴海に口付けた。ぼんやりとそれを受け取っていると唇を割って舌が差し込まれた。 「…なるみさん」 ささやかれる声は甘い。口腔は冷たくて、二人で絡み合っても暖まる事はありはしない。鳴海は決してライドウについていったことを後悔しているのではなかった。吸血鬼のような少年は、おそらく出来損ないなのだ。鳴海こそが正しい進化の形であり、吸血鬼はその適応過程での出来損ないに過ぎない。それでも鳴海が少年についていくのは、少年を守るのは。 ただ鳴海が少年を、ライドウを守っていきたいからであったし、それ以上の何物でもなかった。
|