第二夜/Jam





 こんな夢を見た。
 男が猫を踏んだ。猫は黒く柔らかなびろうどの毛に覆われ、銀の細い髭を伸ばしていた。猫は猫らしく髭をふるわせ、その肢体はぐにゃぐにゃとして捉えどころのないようで、ただ足のうらにかすかに心臓の動くのがわかる。男は猫に踏んでから気づいた。し まったと思ったがすでに遅い。男のおろしたての西洋仕立ての靴は深く深く猫を踏み抜いた。
 猫は踏み抜かれたまま一つ伸びをするとするするとその胴を伸ばし、男の脚に絡みついた。猫は鈴の様な声で何事かを話しているようであったが、その言葉も猫の体同様に捉えどころのなかったので男には知れなかった。
 窓の外はひどく曇り膿んだような色をしていた。雨を降らすわけでもないが、空は近く、男は猫を半身に巻き付けたまま彼の椅子に腰をかけた。男が脚を組んだ為、脚から解放された猫は残りの脚を踏みしめいっそう男に絡みついた。猫の顔はすでに男のすぐそばにあり、男の癖毛がその耳に髭にふれる度に小刻みにふるえた。
 まだか。唐突に声がはっきりとするので、みると頬にすり寄るほど近くに猫の顔がある。まだか。もう一度猫が言う。猫はまだかまだかとくりかえし、男はぼんやりと言葉の意味が失われてゆくのを聞いた。猫の翡翠の目は徐々に見開かれ、柔らかそうな口は止めどなく動きあたりに死のにおいを撒き散らす。まだかまだかまだか。男はそれにはかまわ ず、手を伸ばした珈琲カップが空であるのに気づく。あぁとタバコに伸ばそうとするがその箱も空である。男はため息をつく。ほうと吐き出されたその息は薄い紫をしていて、すぐに消えた。
 どれくらいたったのかはわからないが、男が見開かれた猫の目にも見え隠れする白い牙にも飽きたころに、少年が帰ってきた。少年は男に頼まれて煙草を買いに出ていたのである。少年は空と同じ色の目をして、するりとドアをくぐり、男に煙草を差し出した。箱の中には棒状のシナモンが規則正しく並んでいる。男はためらう様子もとがめる様子もなく、当たり前の様にそれに火をつけた。甘く苦い香りがあたりに立ちこめ、男の吐き出す煙が少年と猫を捉える。
 ふんでしまったのですか、と少年は言う。踏んでしまった、踏んだら伸びてしまって、まったく難儀している。と男は悠々とはなす。猫は未だまだかまだかとつぶやいている。目は顔の半分をうめつくすほどに大きく裂けている。次第に猫の口元が黒く堅く尖りはじめ、耳は崩れ落ち背中に二つ瘤のようなものが膨れあがった。それは一対の翼である。黒く光る猫ともカラスともつかなぬものは、ただ男にまだかまだかを繰り返し続けた。

 こうなってしまったらしかたがありませんね。少年は言う。言うが早いか、少年は猫の様なものの首をつかみ、ぐいと引き寄せた。男に巻き付いていたそれは簡単にほどけて少年の足下にだらりと伸びた。翼をかすかに羽ばたかせてはいるが、殆どだらりと伸びきっているばかりであった。綺麗に切りそろえられた爪が並ぶ少年の長い指が、猫の体を這う。それは死体を喰らう蛆のように白く澄み、蛇の様になめらかである。不意に少年は猫の胴の辺りをつまみ上げるとそのままぐるりと腕をまわした。ぐるりと回されてねこは長い肢体を絡ませて、毛糸玉のように丸くなった。よく見るとその球体には切れ目はなく、つるりと丸々としており、表面を覆う黒い毛がさわさわと美しかった。
 少年はまだ不十分とでも言うようにその球体をこねくりまわす。それは異国の占い師が固く透き通った水晶玉に魔術をかける様ににていた。徐々に猫あった物体は小さくしぼみ、仕舞いには何事かをつぶやくと消えてしまった。
 しばらく男は少年の指先に見入っていた。猫は消え、まるで祈るかのように空の手は重ね合わせられていた。
 あぁ。今ならば少年は此処から出てゆける、とふと男は気付く。男と少年を繋ぐものは、少年の手の中で絶ち消えた。今であれば、この狂おしいほどの想いから、少年を、そして自分自身をも解き放つことができる、と。この少年へ抱くエゴティシズムからお互い自由になることが出来る。立ち去ろうとする少年の足元にすがる自分を夢想する。それは滑稽ながらも絵画のようでもある。それもいいかも知れないと思い始めるより先に、妄想の中すがる男は一瞬にして少年の細い首を欠き切った。
 少年は組んだ指先をするりとほどくとゆっくりとこちらに振り向いた。その顔は死よりも美しい。男は少年が美しく笑いながら男の名を呼び、別れをつげるのを想像した。別れの理由は。そうだ、猫が失われたからだ。
 シナモンの噎せるような香りが室内を飽和させている。空は手が届きそうなほどに近い。それでは。と少年は言う。それでは、あたたかい紅茶でもお持ちいたしましょうか。それとも、接吻でも、いたしますか。そう尋ねて妖艶に笑う。その薄墨色の目になぜか黒猫をみて、男は一瞬指先が冷えるのを感じた。もはや猫は居ないのである。それは分かっている。こうしていれば、いつか自らの手でこのゆがんだ執着ゆえに少年を殺めてしまうであろう。男は少年の白く伸びたうなじを目でなぞる。それなら今。猫の居ない今のうちに。
 それならば、紅茶を。と男は言う。男は少年の目を見ない。少年は薄く笑いカップを手に取ると、くるりと背中をむけた。黒猫のかわりに一筋の煙が部屋から出てゆく少年に追いすがる。部屋の中をどろりと甘苦い香りが満たしている。
 あと少しすれば少年は紅茶を抱えて男の元へと戻る。