夏の暑さ、昇降口の濃い下駄箱の影、油蝉の声、校庭で遊ぶ子供の声。空気の青臭い匂い、濃い緑。砂煙の舞う視界に、涼しげな白い学生服。顔にはひどく目立つ傷がついているのだけれども、本人がそれに全く意を介さないだけにさほど気にならない。名を、葛葉雷堂。この村に昔から伝わる神社の血筋の、現存するただ一人の人間だ。そういうと大げさだろうが、間違ってはいない。 「鳴海」 雷堂はいつもと同じように鳴海の名を呼ぶ。いつもと同じようにしゃべっているというのに空気はひどく冷え込んでいる。昇降口の影だからといって決して暑さがないわけではなく、その証拠に汗だってかきそうなほどなのにのどは冷たく張り付いて、そこからお情けのように入り込んでくる酸素はいてついている。なに?と平静を装って言葉にするものの自信はない。だが雷堂は鳴海のそんな様子を意に介さずに(そう彼が全く自分の顔の傷に頓着しないのと同じように)話し始める。 「一つ、聞いてほしい事があるのだ」 「どんな事かな?」 「なに、そう難しいことでもない」 お前にもできる簡単なことだ、と雷堂はいつものように鳴海を馬鹿にした口調で話す。いつもはそんな言葉を話しているときの雷堂はにやりと小ばかにした笑みを浮かべているのだけれど、今彼の顔に浮かんでいるのは虚無だ。何もない。光のない瞳にぽっかりとあいた空洞が虚ろに鳴海を見つめている。 「声が聞こえたら教えてほしいだけだ」 こえ?なんの? そう浮かんだ考えはそのまま顔に出ていたらしく、雷堂はしばらく何を言おうか迷った後に薄く笑ってつぶやいた。 ねこの 「…は?」 間抜けのように響く声に(いや実際雷堂から見たら酷く間抜けに聞こえただろう)雷堂は鋭利に薄く笑いながらしゃべった。 「黒猫の声だ。聞こえたら知らせろ。」 「…な、何で?」 黒猫の言葉を鳴海は覚えていた。近づくな。あの二人には近づくな。えっと?なんでだっけどうして? 「死にたくないならな」 しにたくないならな 「誰かに聞いたことがないか?猫は」 「オヤシロ様の使い…?」 そうそうそれだ、と雷堂はすこし驚いたように答えた。雛見沢に伝わる伝承は刺激的で民俗学の見地から見るととても面白いらしいが、猫がオヤシロ様と関係がある、というのはマニアックな歴史書にわずかに書いてあるだけなので知っている方がめずらしいのだ。ラスプーチンあたりに聞けばいろいろと根掘り葉掘りある事ない事教えてくれそうではあるが、鳴海はそれほど彼とは話したことがない。どうして知っているのか自分でも不思議だった。 「なんでオヤシロさまの」 いまごろ、とかすれた声で聞いてみても雷堂は答えない。ただ薄く笑っている。虚ろがこちらを見つめている。いつのまにか子供の声は遠く、校庭の風景はかすんでいる。足は雷堂の方に進みはしないが戻ることもない。 「あれ、雷堂、どうしたんですか、こんな所で?」 階段をかたんかたんと下ってきたのはライドウだった。雷堂の目が急に焦点をあわせて普段の顔に戻っていく。鳴海はほっと息をついてライドウの方を振り返るとライドウは鞄二つ持ったまま、階段を下ってきていた。一つはおそらく自分のものでもうひとつは雷堂のものだろう。 「いや、なんでもない。」 「そうですか」 その二人のやりとりを聞いて鳴海は心底ほっとした。この言動から言ってライドウは雷堂の得体の知れぬ頼みごとの事を知らないのだろうし、それは雷堂にとっても知られたくないのだろう。人ごみの多いところでは幽霊はでないと馬鹿らしいながらもそういうお約束事があるものだ。 そう、物語の中では。だからこの安心は本当に何の根拠もないことだったのだ。 「猫の話だ」 「あぁ」 なんだ、とそういってライドウは鳴海の傍らを通り抜け雷堂のそばへと歩み寄る。まるで人の世界を離れ人外の領域に躊躇なく踏み込むように。もしくは最初から、人ではなかったかのように躊躇いなく。 「ねぇ、先生。お願いしますね。」 くすくすと笑いあう声が聞こえる。鳴海はぎしぎしときしんでいる首の叫びを聞いたような気がした。それでもまるで何かに導かれるように視線は雷堂たちの方へと向かう。 「鳴海先生、ねぇ、言わなかったら」 くすくすと笑うその瞳はいつのまにか虚ろだ。雷堂とライドウは合わせ鏡のようにまったく同じ顔で笑っている。 「い、言わなかったら?」 どうして聞き返してしまったんだろう、答えなんてわかりきっているのに。 くすくすとまるで何かの美しい風景のようにその口は開く。 「祟りで殺されてしまうかもしれませんよ」 オヤシロ様の あの二人には、近づくな 死にたくないのなら |