錯乱
夏の暑さは幸いだ。物事はあやふやで人々は現実を忘れる。
多分それはなんでもない一言だったのだ。もうおそいよという言葉の意味は俺は理解する。でもだからって、なんだっていうんだろう。ただ憤るタエちゃんの、怒りに満ちた瞳に涙が出そうになるのは、あの男の言葉の意味を理解したからに違いなく、それは本当に最低の事実だった。
昨日叔父は帰ってこなかった事を現わすかのようにライドウは朝から学校にいて、雷堂と話していた。
よかった、と俺はため息をつく。ライドウの調子は普段と変わらないものだ。その普段がどんなものか俺は忘れかけているがでも大丈夫だと思った。叔父は死んだしライドウは学校にきている。雷堂と話しているし、このままいつか傷が癒えるのは時間がかかるがそう難しいことではないと思った。木陰で謝るライドウや、蜜柑の事を俺は思い出す。でもそれは昨日の鮮烈な記憶が確固たる証拠として、いつかライドウは元の通りになるだろうと補償してくれた。だって叔父はいないのだから。
ライドウは雷堂のお弁当を食べているようだった。少し前は本当に少ししか食べなくて本当に心配していたのだけれどもご飯をちゃんと食べるようになってよかった。もしかしたら昨日叔父が帰ってこなかったことですこし元気になったのかもしれない。雷堂と話しながら笑う様を見て、本当によかったと思って、不意に頭を撫でようと思った。もう大丈夫だ、という意味でただ優しく、ぽんと、おくだけのつもりで。
でもそんなの、俺のただの願望だった。
ばん、と大きな音がして教室が一瞬で静まり返る。
蝉の鳴き声はうるさいほどに耳に染みて、教室の静寂を深めるばかりだ。床に落ちた箸と煮物、ライドウは白い顔で戸惑っているように見えた。
「…ライドウ君…?」
タエちゃんが恐る恐るという感じで声をかける。その声は教室の空気を揺らすだけで、ライドウに届いているとはとても思えない。ライドウは、少し困惑した顔で俺を見ている。一瞬に何が起こったかわからなかった。腕がいたいのは、ライドウが俺の腕をちからいっぱい跳ね除けたからだ。
「…あ、あの、どうしたんですか、ライドウさん?」
カヤちゃんが焦ったような様子で聞く。床におちた煮物はライドウがさっきカヤちゃんからもらったもので、そうだから一瞬前まではなんの変哲もないいつもの食事風景だったと思うのに、今どうして俺は腕を叩かれて、ライドウは白い顔で少しはなれた場所に居るのだろう。
「…あ、…いえ…」
言葉は切れ切れで聞き取りにくい。何かを必死に抑えるようにライドウは胸に手を当ててずるずると窓際へ後ずさる。もともと白い顔は更に蒼白になって、血色と言うものが失せていく。何が起こったのかわからないほかの生徒達がどうしていいか分からずライドウの行為をただ見守る。
「…ライドウ?」
ライドウは息を乱して窓に寄りかかる。とん、と軽い音がして、それ以上後ずさるのをやめた。でもそれは足を止めたのではなくて、もうこれ以上下がれないから仕方なくそこで止まるしかないのだというようなそんな様子だった。腕が痛むのはライドウに叩かれたからで、なんで叩かれたのだろうと思う。それは容易に想像できるのに、したくない。頭を撫でようとしたから、か?
「えっと、どうしたの?」
俺はゆっくりとたちあがってライドウに近づこうとする。でも、立ち上がるときの椅子が床に擦れる音にライドウはぴくりと肩を震わせて、息を呑む。
「…あ、あの、先生」
声はライドウの様子とは違って酷く冷たかった。そしてぽつりと呟くように来ないで下さい、と胸を押さえたまま言う。
「…な、何で?」
「何でもです!」
ライドウの叫び声にクラス中が驚く。ライドウは普段怒鳴らない。声を荒げるところなんて聞いたことがない。どうしてこうなるのか分からない。どうして?これ以上後ずされないことをライドウはわかっているのに、それでも少しでも距離をとりたいのか横に緩慢に移動する。背中を窓に押し付けままで。タエちゃんやカヤちゃんは驚くようにライドウを見ているし、それは俺も同様だった。
「…ライドウ?」
「来ないで下さい!」
俺はライドウを助けたんじゃなかったの?昨日は祭りで楽しく過ごして叔父の帰ってこない朝が来ればほっとするような夜を過ごしたのではなかったの?手を差し出そうと近づく俺をライドウは力いっぱい突き飛ばす。
「ライドウさん、どうしたんですか?」
カヤちゃんの強い言葉にライドウは胸を押さえていないほうの手で耳をふさぐような動作をして頭をふる。声をかけるとどうにかなりそうでどうにも出来ない。ライドウは焦点のあやふやな薄灰色の瞳をそれでもまっすぐ俺に向けている。でもその目は俺を見ていない。
ライドウの奇妙な短い呼吸音と蝉の声だけが教室に響いている。
「…あ…ぁ…ご、ごめんなさい」
興奮の糸が緩んだのか、ライドウは焦点の合わない瞳のまま、謝罪の言葉を口にする。でもその言葉は誰に向けられたものか、クラスの誰にも分からなかった。だから誰も応えられない。俺も、タエちゃんもカヤちゃんも、雷堂すらも。その間もただひたすら、ライドウは謝り続けている。
ごめんなさい。ごめんなさい。すいません。ごめんなさい。胸を押さえ、ときたま咳き込みそうになりながらそういい続けている。
「…ライドウ、大丈夫…?」
その謝罪の言葉を聴いていられなくて俺は応えるけれどライドウは全く聞いていないかのようにただ謝り続けている。夏の太陽の強い光が窓枠の影を濃く、床に刻み込んでいる。その影の線の向こう側のライドウに言葉が届かない。声をかけられない。見ていることしか出来ない。
「し、知りません。ごめんなさい。俺じゃ、ありません。違います。ごめんなさい。すいません。知りません。」
ライドウ、一体なにがあったっていうんだ?俺は立ち上がって、遠巻きにライドウを見ている生徒の輪から一歩進む。
「何が…あったの?」
俺の問いにライドウは錯乱したように答える。それは静かな勢いで、でもだからこそ止められない。
「…あ…違います。俺は知りません。知らないです。俺は違います。いやです。もういやです。止めてください。許してください。」
何をライドウが言っているか分からない。ただ顔をゆがめて、まるで人形のように呟く様にどうしたらいいのかわからなくなる。ただ何と声をかけていいか分からないから、かける言葉は要領を得ないものになる。それはライドウには届かない。ライドウ、落ち着いて、俺がわかる?そう聞いても、短く息を呑んで、謝り続けるだけ。
「もういやです。いやです。やです。…いやだぁ…」
ごうと、ともれた呟きに雷堂が目を細めたのだけれど、それは俺には見えなかった。黒猫が雷堂とライドウにとってどんな存在かを知るのはライドウ以外に雷堂しか居なかったからそれを見たところで俺はライドウに身に何が起こったかなんて分かるはずもなかった。
「いやです。いやです。ゴウト、ゴウト!」
叫ぶ声は悲痛なものだ。ライドウ、落ち着いて、危害なんか加えないよ、俺がわかる?その言葉がどんなに届いていないかなんてみれば分かる。あれ?俺は叔父を殺して、ライドウを助けたんじゃなかったっけ?これからライドウは時間をかけてだけど、元の生活に戻っていくのではなかったっけ?これ、は、なんだろう?
「…気持ち悪い。いやです。もうやです。ゴウト、ゴウト!…っあ…ぁ…」
ライドウがずるずると窓にもたれかかりながら胸を押さえて膝を突く。顔色が真っ白で、瞳の焦点がどんどんぼやけていくのが分かる。呼吸がおかしい。
「鳴海、どけ!」
雷堂が俺の肩をつかんで輪の中に引き戻し、ライドウに駆け寄る。
「大丈夫だ。落ち着け。叔父なんて居ない。」
「…あ…い、やで、す。あんなもの、もういやだぁ…助けて…」
過呼吸になっているのだ。せわしない呼吸の合間に搾り出すような拒絶と助けを呼ぶ言葉。雷堂が何事かを囁いて(多分手で口を押さえろ、とかそういうやつ)、ライドウが緩慢な仕草で自分の手で口を押さえる。
その時ようやく俺は叔父の最後の言葉を思い出すのだ。
もう、おそいよ
タエちゃんは拳を握り締めて、じっとライドウを見つめていた。酷く鋭い眼差しで、その目から涙を零しながら。昨日で、全部終ったんじゃなかったっけ?もうおそいなんて、昨日じゃ遅かったなんてそんなことあるもんか。ライドウは元に戻るんじゃないの?それは俺のただの願望で、現実はそうじゃなかったのだろうか。
がしゃん!とものすごい音がしておもわず振り返ると雷堂が掃除用具要れを蹴飛ばした所だった。だれも予想しない雷堂の行動に皆呆気にとられる。そして唇をかみ締めて、ライドウの呟きを黙って聞いている。
「雷堂どうした?」
「…すまない。鳴海、少し黙っててくれるか?」
静かな声に、焦りばかり掻きたてられる。何かをライドウから何かを聞いたのだろうか。俺はそれを思わず聞き返す。
「どうしたんだよ」
「うるさい!黙れといっただろう!」
雷堂が敵意の塊のような声で感情をぶつけてくる。それは俺を本当に打ちのめした。それは雷堂にとっては一時の激情だったのかもしれないが、雷堂が激昂する珍しさにどれほど重い状況なのかをしる。ライドウはぐったりと壁によりかかって目を閉じている。
「…いやだ。いやだ。ごめんなさい。許してください。いやだ。」
ごうとが、とライドウが呟くのを雷堂が押し留めた。思い出さなくてもいいと静かに呟いた。セミの声が今更耳に届いてくる。それだけライドウが静かになったということだけれどそれは少しも喜ばしくない。世界が灰色になっていくような気がした。
ライドウを救えるのだと思っていた。救うのにかかる時間は短いほうがいいにしろ、限りなんて無いと思っていた。手遅れなんて事があるなんて思わなかった考えたくなかった。俺はライドウという存在が傷つくことはあっても壊れることはないと思っていた。そうではないと知っていたはずなのに、いつの間にか、忘れていて。人は、壊れるんだ。ライドウが壊れる前に、叔父は殺さなくちゃならなかったんだ。
もう、おそいよと笑いながら呟いた男の表情が思いだされる。俺はその瞬間に男を殺したことを本当に後悔した。もっともっと、苦しめてから殺せばよかった。殺してしまったらこの気持ちをもうどこにぶつけていいかわからない。あぁ、くそ。あの男にはさぞ俺は滑稽に見えただろう。もう手遅れであるにも関わらず、ただ救えると思って己を襲う男が。
ふっと、ライドウの体が力をなくす。雷堂がそれを抱きとめて、カヤちゃんに静かに監督を、と言った。監督を呼んでくれと。カヤちゃんが弾かれたように職員室へ向かい走り出す。
蝉の声が、うるさい。まるで俺たちを嘲り笑うかのようにいつまでも耳に残る。
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