保護司を追い返す
今日も暑い。蝉がうるさい。 「おはようございます、先生」 「あぁ、おはよう」 昨日、結局は児童相談所に通報をすることになった。それは不可抗力のどうしようもない最悪の形で、なし崩し的に行われることになった。だから昨日は帰るのも遅く、福祉士といやになる位話をした。結局要領を得ないまま、家庭訪問がなされ、結果どうなったかを俺は知らない。そんな回想をぼんやりとしていると、タエちゃんがやってくる。 「おはよう、先生、カヤちゃん」 「おはようございます、タエさん」 それはいつも通りの軽快な朝だ。それだけは唯一かわらない。九十九から聞いた下らないオヤシロ様のたたりの首謀者という話が頭から離れなくて、カヤちゃんに、もし今年の崇りが決まっていないのなら、叔父をと頼み込んでしまいそうになる。それは酷い話だ。生徒を殺人者よばわりか。そんな事は出来ないし、実際そんな事はありえないだろうと思う。もしカヤちゃんが雛見沢を実質支配する御三家、大道寺家の若き当主で、連続怪死事件を裏で糸引く存在だとしても、目的が見えない。鬼ヶ淵を復興?信仰を取り戻す?今の時代にそうしてなんになるというんだ。 あぁ、けれど叔父が、崇りで死んでしまえばいい。そうしたら、全て解決するのに。カヤちゃんが実行犯だったら問題はすぐに解決だ。けれどそれは、頼んではいけないことだろうと思った。そうだ、ダメだ。やっても意味はない。 「ライドウ、今日来てるといいね」 「そうね。先生も昨日は遅くまで残ってたし、きっと大丈夫よ」 鳴海先生と違って頼りになるし、とタエちゃんが付け加えるのに苦笑して応えた。そういう手ごたえは昨日はなかった。ヤタちゃんが県の児童相談所に直接電話をし、昨夜のうちに児童福祉司が家を訪問。民生委員も今後定期的にアプローチすること。結局緊急保護がなされたかどうか、そこまでは分からなかった。でも手段なんてなんでもいい。今日からみんなといつも通り、平穏に安心してライドウが暮らせたら、元の日々が返ってきてくれるなら何でもいい。 昇降口の下駄箱で、カヤちゃんが視線をめぐらせる。 「ライドウさん、来てるみたいですね」 「…よかった」 タエちゃんが本当に安心したようにため息をつく。俺はそうだね、と言って笑った。来てるだけでは分からないけれど、それでも来ないよりかは大分安心だ。じゃあHRで、と二人と別れた。ライドウの顔を見ることが怖かったのかもしれない。結局通報したのがよかったのか悪かったのか、悪かったのならそれを目の当たりにしたくなかった。けれど教室は入ってみればいつもの賑やかな朝だった。 「ライドウ君、…大丈夫だった?」 タエちゃんやカヤちゃんや雷堂が、ライドウを取り囲んで話していた。 「…えぇ。風邪も治りましたし。心配おかけしたみたいで、これからは気をつけますよ」 話はかみ合っているけれど違和感はある…ライドウは何を言ってるんだろう。 「叔父は、どうなったの?保護司来たんでしょ?」 タエちゃんの言葉にライドウは少し困ったよう答える。 「多少の誤解があったことを認めて、お帰り願いましたよ。」 なんで!という前に雷堂に腕をとられ廊下へ引きずり出される。あ、朝のHRまだやってないのに。と頭のどこかは平和に考えるけれど、それは逃避なのかもしれなかった。 「何、雷堂?」 雷堂は無言で俺を引っ張ったまま廊下へ連れて行く。 「…雷堂、なぁ、どういうこと?」 「…あいつは、何でもないといって保護司を追い返した。」 な…んで、と言いながらも、それはなんとなく分かることでもあった。ライドウはもう子供じゃない。子供だけれど、頭の回転の速い子だから、どうしたらあの場所から逃げられるか分かるはずだ。でもそれをしないのは、きっと叔父に脅されているからに違いなく、そして出来ないのなら保護司に訴えるはずがない。 「…でも保護司は本人の意思に関係なく緊急保護が出来るだろう?虐待は事実だ。」 「児童相談所長が検討した末の判断だ。そう決まったのならもう文句は言えまい。」 ライドウがそういったのならもうどうしようもない。受けている本人が虐待を否定したら、そして保護司が緊急保護をしないと、様子を見ると決めたのなら、それは長い長い期間をライドウが叔父の下で送ることを意味するだろう。なんてことだ。なんて。 「…鳴海」 雷堂は俺の名前を呼んで、しかしそれ以上は何も言わなかった。その言葉の先がライドウを助けてやってくれなのか、虐待を耐えるライドウをわかってやってくれといいたいのかは俺にはわからなかった。ライドウのささやかなけれども頑強な否定の理由がもうよく分からなくなっていた。誰もライドウを彼自身の意向を無視してでも助けられはしないのだろうか。あんなにも痛々しく笑っていてそれが辛くないなんてありえないのに、それでも今ライドウを助けられないのが、わかってはいても、不思議でしかたがなかった。 「…相談所も、定期的に訪問するといっていたらしい。大事になったらすぐに助けるだろう」 「…大事になった後で、でしょ?」 雷堂はぐっと息を飲み込んで、視線を床に落とす。俺もため息をついて、そして雷堂と教室に戻った。タエちゃんとカヤちゃんは相変わらずライドウと喋っていた。その会話は他愛ない。面白おかしい、まるで楽しかった頃の日常のよう。もしライドウがまだ本当に耐えることが出来るのなら、見守るべきなのだろうか?俺が何をしても余計なお世話なのだろうか? 俺の視線の先でライドウは生徒達と他愛のない談笑を続けている。
学校の体育の授業はかなり馬鹿らしいというか文部省の指導要領というの全く無視したつくりになっている。つまりに体を動かしてさえいればOKというなんともアバウトなものなのだ。しかしさすがに田舎の山奥の学校だけあってみんな身体能力は都会の子供の比ではない。 ライドウはまだ体調が優れないことを理由に体育を見学していた。といっても見て学ぶことなどこの授業には特にない。なんていったってみんな放課後に遊んでいるように遊んでいるだけだからだ。教師の体育だけはとくにすることもないので監督くらいしかしていない。校庭を照らす日差しはきつく日射病を起こしはしないかと不安になるが生徒達自身よく分かっているらしく水遊びをしている子供達もいた。 ライドウはといえば木陰でぐったりと寝ていた。 「ライドウ君、本当に具合が悪いのね」 タエちゃんが心配そうに言う。心配ですねとここ数日何度言っただろう言葉をカヤちゃんがぽつりとつぶやいた。雷堂は相変わらずただ黙っている。一応授業中なんだからほら動く動くとみんなに発破をかけて校庭にちらす。それでもまだタエちゃん達が心配そうな顔をしているから俺はライドウの様子を見て来るよと安心させるように言った。 校庭の隅の木陰でライドウは木に寄り掛かりながら浅い眠りを享受しているようだった。俺は声をかける事ができずに、木陰の前で立ちすくむ。ライドウの顔色は良いとはいえなく、薄く開いた唇からは静かな呼吸音がしている。夏の日差しが重なり葉の間から漏れてライドウの頬をわずかに照らす。そこは泣きたくなるほど白い。この前に見た痣は消えかけてそれほど痛々しくは見えなかった。 ライドウは静かだけれど決して体力がないわけでも虚弱なわけでもない。元来の気質が真面目らしく居眠りなんかしたことがない。とても気配に敏感で人が近づくと誰よりも早く気付く。俺の家に来ていたときに居眠りをしていたことがあったがあのときもタオルケットでも掛けようと近づいたら目を覚まされた。でも今はライドウは俺の接近に気がつくこともなくただ眠っている。浅い眠りなのだろうと思うのは呼吸が浅いからだ。元気そうかだって?とてもそうは見えない。 “お前には土気色の顔をして、ただ日陰でぼんやりしているだけの葛葉など想像もつくまい“ ヴィクトルの言葉が不意に思い出されて悲しい。あの時は想像したくもないと思ったのに想像する前にそれは現実になってしまった。 子供が嫌いなのは勝手だ。動物好きは良い人で、嫌いなのは悪人だなんてあるわけがない。だからそれと一緒だ。けれどだからといって動物を殺しても良いわけではない。叔父のあの冷たい笑いを思い出す。あれは愉しんでいるのだ。自分のたった一言でライドウがおもしろいように動くのが、あからさまにおびえるのが、楽しくて仕方がないという顔をしていた。あの冷たい顔の下で、笑っていた。 あの男など死んでしまえばいい。祟りで殺されてしまえばいい。俺は自分のそんな考えを押さえる事が難しくなっているのを笑いそうになる。思わずカヤちゃんに頼み込みたくなってしまう。もしカヤちゃんが裏で糸を引いているのなら、お願いだ、今年の祟りをあの男に。 「…ダメだ」 そんなことできるわけがない。 「…ぅ…」 ライドウが気配を察したのか、かすかにうめく。俺は口を閉じてとっさに気配を潜めようとしてしまう。別にそんな必要もないのに、反射的に。うっすらとライドウが目を開け、俺の方を見て、身体をこわばらせる。夢うつつなのかつぶやく言葉は聞き取れなかった。そしてまたゆっくりと目を閉じて浅い眠りに引き込まれていったようだ。 ぐらぐらとかしぐ頭でそういえば黒猫を見ていないと思った。少し前まではよく学校でみかけたというのに。黒猫の名前はゴウトだ。ねこじゃらしをとライドウに言われたあの時は一体いつだったのだろう。それはもう取り戻せないのか、戻ってこないのか。 ライドウが何を言ったのか、俺には聞こえていた。それは酷く怯えの入った、謝罪の言葉だった。ごめんなさい、ごめんなさい。それは静かな痛々しい声だった。夢に見るほどなのに、俺の姿が一瞬叔父に見えたんだろう?だから謝ったんだ。それなのに、どうして、助けを求めてくれない。どうして保護司を追い返すんだ。 セミの声がうるさい。こんなにうるさいのに、ライドウは眠っている。暑さはじりじりと脳を浸食し、首が汗を伝う。祟りが、叔父の元に下ればいい。あの男が死ねばいい。カヤちゃんに、いいや、ダメだ。そう、もうダメだ。 俺が殺そう。 背中の生徒のにぎやかな声が泣きたいほど遠い。
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