ネコ、喋る
ライドウが笑っている。その横顔があんまりにも綺麗なので、俺は普段あまり表情を変えることのない少年をリビングからぼんやりと見ていた。ライドウはえらく手慣れた様子でボウルの中の卵白を泡立てている。リビングの片隅に置かれた扇風機はぶぅぅん、と羽音にも似た音をさせて風を送り出していた。黒猫がライドウの足下でぐったりと丸まっている。俺はそこまでを眺めて、リビングから外の風景を眺めた。 最近どうも調子が悪そうだからという理由で雷堂にライドウの様子を見てやってくれと頼まれたのだがあまりそういう必要はないように思う。そもそも何でおれ?と聞くと、あいつはおまえも相当気に入っていたようだからな、と吐き捨てるように言われた。俺も暇なのでタエちゃん達の部活ついでに家でしゃべったりしていたのだが、おじゃましてばっかりなのもとライドウが今日は何か作ってくれるという話でこうなったのだ。 窓から見える風景は日差しの強さを物語っていた。庭の植え込みの木々は強い日差しを重なり合った葉の分だけ遮っていた。緑の濃さの違う葉は目に新しかったし、空は驚くほど青い。今週末からは梅雨に入るそうだがとてもそうは思えない。今年は空梅雨もいいところだ。気温も酷く高くて、六月とはとても思えない。 猫が喉を鳴らす。ライドウはくすりと笑って、もうすぐだとつぶやく。もうひとつのボウルに入っていた生地にそのメレンゲを混ぜて、木のへらでざっくりと混ぜていく。真っ白いメレンゲの泡を潰さないようにするような丁寧な手つき。混ざったら、それを型に入れてオーブンへ。(俺の家はなぜかキッチンだけはやたらと設備が整っているのだ。まぁあまりつかわないけれど) 蝉の声がじぃじぃとする。日差しは苛烈で影は濃い。扇風機は部屋の隅で空気をかき回し、涼しい風を送る。ライドウは笑いながら、ボウルやへらや、そいうのものを洗っている。猫が面倒くさそうにもう一度鳴く。水道から流れ出る水は透明で、濡れていく手はとても気持ちよさそうだった。
「その猫と、ずいぶん仲いいんだね」 ライドウの膝で丸まっている黒猫を見ながら言う。ライドウは特別黒猫を撫でたりはしない。ただ膝に乗せているだけだ。ライドウはそうですかね、と返す。ライドウはその猫とよく一緒にいる。神社に住みついているのかよくはしらないが、野球大会の時も一緒にいたように思う。そうだ、ずっと木の上で丸まっている黒猫がいてずっと気になっていたら、その猫をライドウが呼び止めたので驚いた記憶がある。 「いつも一緒にいるよね」 「鳴海先生も見かけたら遊んであげてくださいね。猫じゃらしとか好きですから」 ライドウの声に抗議するように猫がうなった。ライドウは笑みを深めてなだめるように猫の頭を撫でるが、それが気に入らないのか猫は嫌がるように頭をふる。 「なんか、まるで俺たちの話していることがわかってるみたい」 そういうと猫はぴくりと耳を動かしてこちらを見た。俺はあまりのタイミングの良さに少し驚いて、本当にわかっていたりしてなどとおとぎ話のような事を思うが、そんなわけはない。 「案外本当にわかっているのかもしれませんよ。」 ライドウは先ほどまで洗い物をしていたあの涼しげな手で黒猫の背筋を撫でている。ライドウが言いそうにもないことを言うので、俺は意外そうにライドウの顔をみた。少年はこちらの視線に気がつくと、一瞬だけ真剣な顔になり、そしてまた笑った。 「この猫は実はオヤシロ様の使いなんですよ。それで時々しゃべるんです。」 変なことをいうものだ、と思った。オヤシロ様というのは雛見沢のちょっと過激な守り神の事だ。曰く、村から逃げ出したら祟り殺す、入ってきた人間も祟るとか。その神様をまつるお祭りの夜に、四年連続で人が死んでいるという事件もあり、雛見沢連続怪死事件と通称で呼ばれているその事件は村ではオヤシロ様の祟り、とおそれられているらしい。 「ライドウの目の前ででもしゃべったの?」 冗談のような軽さで聞くと、ライドウは予想通りまさかと言った。それはそうだ。猫がしゃべるわけがない。 「でも先生いつか聞くかもしれませんよ。もうすぐ、綿流しですからね」 聞こえたら教えてくださいね、とライドウは笑う。どういう事と聞こうとする俺を遮るようにオーブンがケーキが焼き上がったのを告げる。猫はライドウが立ち上がる前に軽やかに膝から降りる。俺はその猫の察しの良さにふと本当にこの猫は人間の言葉がわかるのかもしれない、と思った。 俺はオーブンからケーキを取り出すライドウの背に声をかける。 「その猫さ、名前なんていうの?」 ライドウが型からケーキを抜く。クリーム色のそのケーキはそれほど甘ったるいにおいのしないものだった。俺の声に答えるように猫が鳴く。 「ゴウト、ですよ。声かけたらきっと振り向いてくれると思いますよ」 それはライドウの兄の名前だった。俺はふぅんと思いながら猫の名前を呼んでみるが、猫は俺の声など聞こえないとでもいうかのように微動だにしない。ライドウは優しく猫の名を呼ぶと、猫はしぶしぶと言った様子で立ち上がる。 なんつー猫だ。綺麗なのは外見だけだ。そう、ゴウトはとても綺麗な猫だ。真っ黒で、毛並みはよく、澄んだ緑の目がとても印象的だ。他の猫と違って何か知性の匂いがすると言うこともライドウのこの猫はしゃべるという言葉に真実味を加味していた。 「あ、このケーキ甘くない」 ライドウは俺がゴウトとにらみ合いをしている間にさっさとアイスティーと、ケーキの用意をしてくれていた。俺はそれほど甘ったるくない匂いにすこし感動して一口食べたのだが、あまり甘くないのですこし驚いたのだ。甘くないからといっておいしくないわけではなくむしろさっぱりとしておいしい。 「先生、あまり甘い物がお好きではなさそうでしたので。」 そんなことはないよーと答えたが、実際の所洋菓子の甘さは少し苦手なのでありがたかった。それにしても本当においしい。 「っていうかライドウってお菓子作りとかするんだね。そういうのはカヤちゃんの専売特許かと思ってたよ」 「カヤさんの方が上手いとは思いますけどね。俺も雷堂も甘い物は好きなので良く作るんですよ。」 本当は和菓子が好きなんですが、和菓子は洋菓子に比べて作るのは容易ではないので、とライドウはさらりという。和菓子を作るだなんて考えたこともない。できそうなのは、羊羹くらいだろうか?菓子系は全く作らないので良くはわからないが、生徒に手作り和菓子を差し入れされたことはないので、やはり洋菓子の方が簡単なのだろう。 「でもライドウも相当上手いよ。これおいしいなぁ。」 そうですか、と嬉しそうに微笑む。あきれたように猫がくるりと床に丸まる。扇風機が風をかき回す。銀のフォークが涼しげだ。眠くなりそうだと思った。俺はケーキをぱくつく。ライドウもゆっくりとケーキを食べている。元気はよさそうだと思った。 ここ数日いろいろな話を聞いた。ライドウのお兄さんの事や、その兄が失踪して戻ってこないこと、雷堂と一緒に暮らしていること。(だから二人の弁当の内容が一緒なのだとそのときになって初めて気がついた)あの風景の下にそんな事情があったのは知らなかった。知らなかったけれどそれを感じさせないほどに立ち直っているということなのかもしれない。 雷堂の相談から始まったライドウの俺の家への訪問は思いの外幸せな時間を俺にもたらしていた。俺とライドウはだらだらとこうしてしゃべる。明日は野球大会の後の祝賀パーティだ。明日もこうしてゆったりと時間は流れていくのだろう。俺はこの村に来てから、酷く幸福な毎日を送っていてできればそれが続くようにと思っていた。 そう、たとえ、これから先どんな運命がふりかかるとしても。
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