器楽的幻想





四月弐拾四日
 Nがひどく真面目な顔をして歩いていくのを見た。彼のそのような顔をみたのは大層久しぶりだったので驚いた。君と俺とは二輪の桜ではないが、あれではどうせ花なら散らなきゃならぬ見事散りましょ国のため、だ。端的にいうと死相がでていた。彼の両隣には軍人がいて、あれはおそらく海軍だろうか、ひどく厳つい顔で歩いていく。彼は一体どこへいくのだろう。声をかけようとしたが、かけられる雰囲気ではなかった。探偵という職業柄いろいろあるのであろう。


 書生は、まるで泡のように見かけなくなってしまった。Nともその後連絡がとれなくなった。I氏とはいわずもがなである。一高を出てからの長い長い夢がまるで覚めたような気分だ。汽車にゆられながらこれを書いているが、あの異形の赤の衝動がいったいなんであったのか全く検討がつかない。
 あの翡翠の瞳の猫と人の子とは思えぬ書生の姿を私は忘れたい、と願っている。そうでないとまた、あの鬼を殺した男のように、私は鬼になってしまいそうな気がするからだ。
 これは幻想である。全て、幻想である。