器楽的幻想 四月弐拾四日 Nがひどく真面目な顔をして歩いていくのを見た。彼のそのような顔をみたのは大層久しぶりだったので驚いた。君と俺とは二輪の桜ではないが、あれではどうせ花なら散らなきゃならぬ見事散りましょ国のため、だ。端的にいうと死相がでていた。彼の両隣には軍人がいて、あれはおそらく海軍だろうか、ひどく厳つい顔で歩いていく。彼は一体どこへいくのだろう。声をかけようとしたが、かけられる雰囲気ではなかった。探偵という職業柄いろいろあるのであろう。 四月弐拾六日 ここ二日ほど書生を見かけない。Nは、酷い怪我を拵えた様で先日の手紙で会う予定だったのだがそれが延びてしまった。ただ酒を飲むだけなので特にかまわないのだが、心配だ。探偵事務所まで行こうと思う。記憶を辿るが、何回回っても橋のほうに出ててしまい事務所にたどり着けない。はて?川の傍にあった記憶があるのだが、上手くはいかないものだ。それにしてもこの町は野良猫が多い。金王屋に、季節に珍しく甲虫がいたので買ってみた。長生きするといいのだが。 四月弐拾七日 甲虫は一体なにをたべるのであろうか。樹液を好むときくので黒蜜を買ってきた。土の上でのそのそと歩いてる甲虫は本当に飛ぶのだろうかと多少疑問を感じられるほど悠長に動いている。原稿は少女が死んでしまったところまで書きあがった。鬼が少女を殺したのだ。一体何故だろう。私はそれが知りたくもくもくと原稿用紙を埋める。ときおり甲虫がその羽を広げ飛ぼうとしている音が聞こえる。またNを霞台で見かける。陸軍、海軍と軍部がらみで忙しい男である。私といえばI氏の誘いで霞台で花見をしていた。とはいってももう桜は満開を過ぎ、すでの若葉が芽生えている。団子が上手かった。甲虫に買ってきたのはそこの黒蜜である。 四月弐拾八日 驚きだ。Nの言っていた探偵助手とは書生のことであった。 四月弐拾九日 昨日のことを思い出せるだけ書いてみようと思う。あれは夕暮れ時であっただろうか。夕暮れ時は逢魔ヶ時ともいうが、ともかく世界の壁が非常に薄い時間のことだ。書生は黒猫とともに酷く頼りなげな足取りで路地を歩いていた。走りたい気持ちを抑え、なにか怪我でもしていたのであろうか、歩いているようであった。私はたまたまパーラーから下宿に帰るところだったのだが、視線の先に書生をみつけついふらふらとついていってしまった。彼は気配にさといらしく、数分見ていると何かを待っている風なとき以外は、黒猫にむかって何かを囁き、おそらく名前を呼んでいるだけだと思われるが、どこかへいってしまう。なので後を付けるなど到底できる事ではないとおもっていたが、昨日はそうでもなかったようだ。黒猫もなにやら酷く急いでいる主人に感化されているようで彼の後ろを酷くじれったい様子でついていっている。パーラーから路地へ入り通りを抜け、するとそこには探偵事務所だ。あぁ、ここにあったのだ、と思ったと同時に書生がビルの扉を開ける。何故、と思っている間に書生の足がもつれ、彼は倒れかける、それを支えたのは、Nであった。私は自分の到底届かない、差し出された手を自嘲気味に下ろした。Nは、その顔にまだ痣が残るものの元気そうであった。はやく原稿を書き上げ、故郷に帰ろうと思う。 四月参拾日 酷く情緒が不安定だ。気候の所為だろう。あやふやな気分のまま原稿を進める。鬼は還りたかったのだという。どこにと男が聞くと、さぁ、と妖艶に笑った。そして刀を抜く。鬼憑きは断て、と。神殺し。巫女を奪う鬼の。鬼は笑う。艶やかに笑う。そしてもう一振り、刀を男に渡して。 そしてどうなるのだろう。 伍月壱日 I氏が訪れた。そういえばあの書生、君の友人とこの助手だったんだってね、とおっしゃられた。そのようですね、と答えた。つい先日に事務所に入っていくのを見たという気にはなれず黙っていた。しかも住み込みだそうだよ、というのに、まぁ書生ですからね、と答えた。何故I氏はこのように書生の話題をふってくるのだろう。不安定になる。ぐらぐらと地面がかしでいるような気さえしてきた。地面の裂け目から目の覚めるような赤が噴出してくる。鬼の赤だ、血の赤だ、異形の赤だ。奈落の底から鬼の血のごとき赤が、わたしを突き動かす。鬼は奈落で死ぬのだ。彼は暗闇で死ぬのだ。 伍月弐日 原稿は進む。刀を男に渡して、鬼は鬼憑きは断てという。鬼は殺すものだと。そして男とともに少女の遺体が凍っている深い深い奈落へ長い長い洞窟を通る。冷え冷えとした空気が男の四肢の感覚を奪っていく。父は大地をさす、母は空を指す。奈落へはどこからでも墜ちてこられる。暗闇の向こうは深き奈落だ。 伍月参日 夢を見た。私は、異形の赤になっている。暗闇を、これはおそらく夜の町だ、とてつもない速度で走り回っている。私を突き動かすのは鬼の如き血の、異形の赤い衝動だ。人通りは全く無い。猫だけが時折私の姿を見て逃げ惑っている。ふと目の前に深い翡翠の目をした黒猫が現れた。猫の名は、ゴウト と声がする。それは思ったより低いあの書生の声だ。振り向くと書生が刀をもってこちらを睨んでいる。視線がぶつかったのは初めてで、私は身震いがするほどの興奮を覚える。衝動が私を突き動かし、私は書生に向かってよろよろと歩き出す。しかし私は異形の赤だ、ひどく力の強い腕が書生を打ち据え、彼はたたらを踏む。刀と素手で切り結ぶなど正気の沙汰ではない。夢の不思議だ。私は書生をそのまま強い力で押し倒し、そして刀で貫かれる。血を失っていく感覚が妙に現実じみていて、夢の中で意識を失う。起きれば朝であった。籠がなにかに蹴られたように散乱し、甲虫は消えていた。妙に寂しいが、何故だか酷く爽やかだ。何故だろう。 書生があの黒猫に笑いかけている姿を見た。彼は、笑うのだ。端整な顔は、笑うとよりいっそうに造作が綺麗であることがわかる。彼は笑うのだ。私は夢をみた自分を恥じた。 伍月四日 原稿が終わった。鬼は男と切り結ぶ。男は鬼に勝つ。鬼は何故か最後の最後で刀の前に身を投げ出したような気がした。鬼が言う。神殺しのお前、次の鬼はお前だと。神であった鬼は、少女の凍った遺体とともに奈落の底におちていった。男は、鬼になり、鬼であったあの男を捜す。しかし彼はいない。いない。男は鬼を愛していたのだと、思う。男は鬼を探す。探し続ける。しかし彼はいない。奈落のそこでばらばらになり、そしてもうどこにもいない。 結局はどこが鬼つきの少女と書生の駆け落ちの物語とどこが違うのだろうと自嘲した。おそらくは私の才能などこのようなものだ。依頼も終えたことだし、故郷に帰るとしよう。Nにもう明後日には帝都を出ると伝えなければ。I氏に連絡をとるが、繋がらない。聞けば彼はもう出版社を参月にはやめていたのだそうだ。 するとあのI氏は一体なんだったのだろう。私の内に有る異形の赤を結実したのはI氏であったが、もう忘れることにしよう。I氏が依頼された怪奇ものにふさわしい日常を送ったといえば送った気もしないではない。その終わりにI氏の不可解な行動が来ても良いのかもしれない。私の小説は致命的に説明不足だから、謎解きなどはいらないのだ。 |