器楽的幻想





四月六日
 男は貴方が枯れてしまいそうです、というのかもしれない。審美的にどうだろうと思わざるをえないがしかし原稿が進まないので捨て置く。少女は男を誘惑する。蟲惑的なその美貌で私をどこかへ連れて行ってくださいと。毎夜地下室から聞こえるうめき声は、鬼の声などではなく、少女の悲しみの声だ。男にささやかなければ自分の屋敷の門ひとつ超えられない、弱さを悲しんでいるのだ。
 I氏に、怪奇ものというよりかは耽美になってしまいそうな旨を伝える。最悪の場合は書き直すしかあるまい。最近は下宿にこもってばかりなので、書生のこともあまり考えない。そういえばI氏に見た暁にはこき下ろすとおもっていたが全く出来そうもない。彼は人を脅かす鬼だ。忘れられない。だがそれよりも先に忘れてしまおうと努める。
 紡績工場で異形の赤を見たという噂話を聞く。知り合いがあそこにつとめていた記憶がある。だれであったか思い出そうとするが思い出せない。そういえば近頃、妙に疲れている。

四月八日
 Nと偶然パーラーで出会った。大分ひどい顔だとからかわれたのでよっぽど酷い顔をしているのだろうと思う。Nは帝都新聞の記者と連れ立っていた。その記者は大層かわいらしい女性で記者名をKという。記者としての腕は確からしく、なるほど下宿に帰って新聞を調べてみると、異形の赤についての帝都新聞の記事はほとんど彼女がかいているようであった。しかし記者名からも記事からも到底女性とは思えぬ。民俗学、民間伝承学も詳しいとNが言っていたので、鬼憑きについての話を近いうちに聞くことになった。今日でもよかったのだが、彼女は忙しいらしい。またと言って別れた。Nと別れた後、あの書生を見かける。何故か衝撃を受けうずくまってしまう、ここにNさえいればもう少し平静を保てたものを、と詮無い事を思う。うずくまったとき、視界に賢そうな黒猫が見えた。翠の瞳は、何故か鬼憑きの少女の黒髪を思い出させる。想像の中で少女は黒猫で遊ぶ。


四月拾日
 夢を見た。鬼憑きの少女についているのは書生であった。


四拾壱日
 Kさんと会った。鬼について色々と教えてもらう。鬼というものが日本に最初に登場したのは出雲風土記であるらしい。その当時鬼とは恐ろしいものの意であり、登場早々人間は鬼に食われるのだそうだ。しかし風土記には鬼というよりも土蜘蛛の表記が多い。ことによれば卑弥呼も土蜘蛛だったのではないかという推測もできるそうだ。それは興味深いことだ。また鬼神をそのまま「かみ」と呼ぶ事もあったように鬼はどうやら崇める対象だったらしい。つまり崇める対象を神としてそうでないものを鬼と呼んだわけで、古来鬼と神とは一体だったわけだ。とすると鬼憑きの少女は巫女だ。鬼は神だ。男は巫女を奪う略奪者、侵略者であるのだ。しかし慣れない講義をきいたような気持ちになり文体がごちゃごちゃとしてしまった。


四月拾弐日
 書生に刀で切り伏せられる夢を見た。己の血にまみれる書生は酷く淫靡だ。少女は書生の後ろの御影石の台の上でぐったりと横たわっている。男は書生に憤っている。しかし私は
私は


四月拾四日
 パーラーでぼんやりと進まない原稿を前にぐったりとしているとI氏に出会った。そういえばここはよく行っていると言っていたが今日になってようやく会えたわけである。偶然だねぇ、と怪異ものを依頼してきたときのように手をあげて私に話しかけるので一瞬今は参月なのではないだろうかと思ってしまった。
 書生を見かけましたよ、と伝えるとI氏はまるで人間じゃないみたいだろうと答えた。はい、そうですねと気のない風に答えるとI氏は黙って私の向かいに座り珈琲を注文する。そして静かに、まるで君の原稿の鬼のようだ、という。心のうちを見透かされた気がしてどきりとする。そうでしょうか、と私は答えた。声が震えていないか多少心配だ。あぁ、そうだともとI氏は言う。そうだろうか。いや、もう認めてしまおう私は、少女を追って書いてはいない。ただ鬼の、彼の、人間に憑くに至ったその悲しい経緯を書き出そうとしているのだ。


四月拾七日
 Nは相変わらず働いていないらしい。あまりにも暇なのでお手紙を書いていますなどというふざけた手紙が来たからだ。それは少女の恋文をまねている。下宿でいつも書き物をしている貴方に憧れています、だそうだ。だからNはすきなのだ。私の憂鬱に沈んでしまいそうな心持をこうして知らず知らずのうちに救ってくれるのである。しかしそのNの代わりに仕事をこなしているだろう助手に同情するばかりである。
 原稿は、もはや私の手を離れだした。男と少女と鬼の、もつれた行く末を見守るばかりだ。男は私なのか、それとも男なのか判然としない。
 夕暮れ時の町に、なにか黒い影を見た。それはあの黒猫であった。一匹で、柳の根元でぐるぐると眠っている。その柔らかな黒毛が赤く染まっているのについつい手を伸ばしたくなるが、しかし触るとあっという間に消えてしまうような気もして出来る限り気配を消して近づき、黒猫の背を恐る恐る触ろうとする。すると猫は私が触る直前で急にあの翡翠のような翠色の瞳を見開き、真っ白な牙をむき出しに吼えた。
 私は、しかし、なぜだか執拗にその猫の背を撫でたくなりむりやり抱えあげようとするがうまくいかない。そうこうしているうちに逃げられてしまった。今度は猫じゃらしでも突きつけよう。


四月弐拾日
 依頼をいい事に大分帰郷を遅らせている。故郷の母からいい加減に帰って来いとの手紙がきていた。I氏もまだまだ先でも良いというし、甘えるだけ甘えるつもりである。先日猫じゃらしを買い、猫のたまり場ともいうべき場所をぐるぐると探し回っている。黒猫は幼いときは目が翠であるらしいが成体になるにつれ黄色になっていくそうだ。あの黒猫は成体である。しかし瞳は翠である。それだけを手がかりに私は黒猫を探している。黒猫をさがしてどうしたいのだろうと思うが、判然としない。
 原稿は調子よく進んでいる。鬼は、冷徹に少女を操り、男は憤っている。男は鬼の声だけを知る。その声はよく聞こえない。鬼が、何をしたいのかすらわからないままに、少女の泣き声を聞いている。


四月弐拾弐日
 黒猫に出会った。今度は猫じゃらしを目の前でちらつかせてみる。一度目で追った後にまるで興味のないようにぐるりと丸まったが、しかし尻尾があがっていたので興味はあるのだろう。実家には昔三匹ほど猫がいたので、大部忘れてはいるが、遊びなれている。ねこじゃらしをこれ見よがしに動かす。目がねこじゃらしを追っている。よし、もう少しだと思ったところで後ろから黒猫を呼ぶ声が聞こえた。ゴウト、とよぶその声はおもったよりも低い。驚いて後ろを振り返るとあの書生が、猫を呼んでいたのだった。猫は先ほどまで猫じゃらしに釘付けだったその目を一瞬のうちにあげて彼に駆け寄る。彼は黒猫を引き連れて、私を振り替えもせずに去っていく。
 猫の名は、ゴウト、だ。


四月弐拾参日
 夢を見る。御影石の台の上少女はぐったりとしている。鬼は書生の姿と声で、私は悲しかったのです、と無表情に言う。男は、私は、もう少女を見ていない。ただ鬼の美しい一挙一動を注視している。