器楽的幻想






参月弐十弐日
 鬼は怯えるものかも知れぬ、と思った。町の路地をかける異形の赤を見た。異形は、酷く怯えた顔をしていた。


参月弐拾参日
 町は異形の赤の話題でもちきりだ。赤マントという通り名だ。いや、違うあれは、鬼だ。


参月弐拾四日
 書生を見かける。鬼憑きの、と単語が脳裏をよぎるほどだ。鬼憑きの少女カヤは、私の頭の中で変貌する。鬼つきの黒ずくめの書生は、まるで鬼つきの、まるで鬼のように。
 言葉が続かない。


参月弐拾伍日
 今日も、書生を見かける。彼の後ろには常に一匹の黒猫がおり、その黒猫は彼に行儀よくついていく。書生は黒猫を時たま振り返る。しかしその顔は酷く冷徹だ。人形のような顔は少しも動くことがない。書生はそのまま路地を曲がって消えた。その路地はつい先日異形の赤が消えた路地だ。あぁ、彼は異形なのだ。納得できるほど彼は美しい。人間から生まれたとは思えぬ。人の子とは思えぬ。

参月弐拾九日
 書生をみかける。彼は腕を組んで町角で何かを待っている風であった。

参月参拾日
 彼は、一体何を待っているのだろう

参月参拾壱日
 I氏がやってきた。ふと我に返り、ここ何日かの日記を読みかえすにいたる。これは一体どうしたことだろう。破きたい衝動に駆られたが、どうにかやりすごす。誰にもみられることのないように気をつけなければなるまい。この下宿に訪れるものは多くない。せいぜいI氏とNくらいのものだが用心にこしたことはないだろう。
 I氏がやってきた。原稿の進み具合はどうだとの事だ。参月から全く進んでいないが、一応進んでいると伝えた。彼もまめな男である。まめな彼は随分前に話した鬼憑きの話を覚えていたようであった。そもそも人に鬼がつくというのが珍しいのである。鬼は常に人間を脅かす側だ。異形、醜形などの風貌を持っていることもあるが、それと同時に非常に美しい場合もある。人とは思えないほど美しいと思うとそれは鬼であったからだ、とされる民間伝承も探せば割合に出てくるものだ。鬼は美しいものが好きである。あまりにも聡明で美しい子供は七歳まではあまり外で遊ぶことが許されなかったとされる伝承もある。それに代表されるように、鬼は常に人を脅かし連れ去るのであって憑くというのは稀である。鬼憑きとはつまり鬼そのものなのだ。
 I氏にそのように語るとI氏は私の剣幕に驚いたらしく、少しやすんではどうだろうとおっしゃられた。自分もあまりの日記の惨状ぶりに思うところがあったので、そうしますと言って休むことにした。明日は早く起きよう。

四月参日
 快適な日々を送っている。それに反して執筆は進まない。Nでも呼ぼうか。きっと彼は下らない話をして色々なことを忘れさせてくれるに違いない。彼の探偵事務所に行くのも一興だが生憎場所があやふやだ。今度聞いてみようと思う。だが、あまり気がすすまない。何故だろう。Nの置いていった洋酒の瓶が窓からの光をすかしている。

彼は、酒を飲むのだろうか。


四月四日
 異形の赤が、銀座に現れたらしい。各地で出没するとの噂だが、最近そのようないかがわしいことだけは良く聞く。あの怯えた顔が忘れられぬ。あれは悲しみの顔だ。鬼でも悲しむのだろうか。あの書生もあの顔をゆがめ悲しむことがあるのだろうか。


四月伍日
 原稿をむりやり進める。主人公の男は鬼つきの少女と出会う。鬼憑きの少女は酷く美しい。その髪は漆黒で翠に反射する。臙脂のスカートから見える足はまるで陶器のように艶やかで白く、また桃の実のように柔らかそうだ。顔はまるで西洋のビスクドールのように整っている。少女はまだ拾六にもならない。男は鬼憑きの少女に近づく。少女は自分の屋敷の中庭で儚げに花を見ている。あの花は、石楠花だ。沈丁花はもうすぐ枯れますね、と少女はいう。男は…だめだ、浮かばない。男はなんと言うのだろうかとそればかりを考えてしまう。鬼憑きの少女の、あまりの美しさにやはり言葉がでないのだろうか。