器楽的幻想






少なくとも私はこの文章を纏めるにあたり、限りなく現実とはかけ離れるようにかいたつもりである。
この一連の出来事を誰かに勘ぐられたくはなく,けれどそれでもそれをここで明記するのは誰かにこの訳の分からぬ衝動を理解して欲しいと願ったからである。




参月参日
 春の暖かい日差しがとろとろと眠気を誘う。私はそれに抗う気も起きないが、かと言ってこのまま惰眠を貪っていてもなにもならないと分かっている。仕方なく部屋の荷物を纏めるという作業を放り出しそのまま町の路地をとろとろと歩いている。なじみの甘味処にでも向かい、そしていま原稿用紙を広げている。この原稿用紙に書き付ける文字は何の意味にもならないのだが、それでも一行二行となにをするともなく埋めていく。原稿用紙を二十枚ほど埋めたころ、入り口から出版社でよく会うI氏が訪れた。彼は私に気付くと片手をあげてにこやかに微笑んだ。
 「やぁ、なんだい、君蝦夷のほうに帰るんだって」
 I氏はまた早耳である。一高を出てから文学を気取ってふらりと昼行灯をしていたものの、もう自分の才能に見切りをつけて今週末には故郷へ帰ろうと思っていたのである。随分と早耳ですね、と答えると、I氏は君の友人から聞いたよとおっしゃられた。はて誰だろうと思ったがぱっとは出てこなかった。
 「最後に一つ君に作家として依頼したいんだ」
 先刻君の家に行ったんだがいなかったんでねと朗らかに喋っている。正直な所故郷に帰る手持ちも寂しかったので原稿料を聞いて二つ返事で引き受けた。依頼とは怪異もの、だそうだ。さっそく資料集めにとりかかろうと思う。


参月伍日
 昨日は週末の帰郷が伸びたので纏めた荷物を部屋の隅に移動させたり、話を書くにあたり何からあたるべきかなどを考えているうちに眠ってしまい、無意味な一日を過ごしてしまった。図書館まで足を伸ばして一日文献をあたる。最近は洋物の妖怪に関する本が増えてきていて興味が尽きなかった。吸血鬼や、サキュバスなど興味をそそられた。一日頭をひねってみたがとくに浮かぶものはなかった。


参月七日
 図書館の蔵書に鬼憑きの血筋という書物があった。動物憑きの血筋ならば、犬憑き、狐憑きなど多数あるが鬼憑きとは聞き覚えの無い単語だ。I氏に鬼憑きに関してなにか知っていないかと聞くと旧家の名家の話をしてくれた。なんでもそういう子守唄があるそうなのだ。以下I氏に聞いたものを書いておく。

 地の道は父と母の間にありて
 鬼の血殺せ、奈落のそこで

I氏自身もかなりあやふやな記憶だったらしく、何回か似たような歌詞の違う歌を聴かされ、その歌で共通する部分だけを書いてみた。ふむ、鬼の血殺せ、奈落の底で、とはまた随分と詩的な話だ。もしも許されるならその旧家の名家についてしばらく調べたいと思う。


参月九日
 Nが久しぶりに酒をもってやってきた。帝都最後の夜の送別会だったらしい。そういえばNにはとりやめたと言っていなかったと気付き、実はとりやめになったのだ、と告げると大げさに肩を落として落胆していた。彼自身が零していた事で判明したのだが、I氏に私が故郷に帰るのだと告げたのはNだったらしい。Nとは大分古い付き合いである。いい洋酒を持って来たのにとぶつぶつというNに付き合ってその洋酒をあけ、朝まで飲んでしまった。二日酔いでつかいものにならない頭をむりやり動かしてNを見送る。しばらく下宿の縁側でぼんやりしているとだんだんと頭がはっきりしてきた。
 昼頃、散歩をかねて鬼憑きと噂の屋敷による。オカルト好きの女性が大層その家に詳しかったので話半分に聞くと色々と興味深いことを教えてくれた。曰くあそこの娘は皆若い時分に死んでいる。曰く地下から毎晩少女の声が聞こえる。曰くその家の娘が一週間前から行方不明である、などどれも限りなく胡散臭いものであった。
 しかし私はNと違って探偵ではないので胡散臭くてもかまわないのである。若い時分に娘が死ぬ家系とはいい題材になりそうだ。帰りにパーラーなるものによってかえる。窓際は日当たりがよく、構想もよく練れた。午後辺りから女学生で込むようだが、長居をしてもあまり刺刺しくならないのが気に入った。しばらくは書斎がわりに通おうと決意する。


参月拾日
 今更ながら受けた依頼が怪異ものであることを思い出す。手元にある原稿は鬼憑きの娘と書生の少年の駆け落ちの物語である。どこでまちがってそうなってしまったのか考え込むが皆目検討がつかない。パーラーの窓際で女学生などの会話を片耳にききながら書いたのがよくなかったのであろうか。彼女達の話にしょっちゅう登場する師範学校の書生がのこのこと出張ってきた時放置して書き進めずに軌道修正をはかるべきであった。しかしその書生はたびたび噂に昇るほど端整な顔であるらしい。女学生曰く、御伽噺の王子様、とは。若いということはいわく不可解である。


参月拾壱日
 煮詰まっている。原稿用紙が遅々として埋まらない。散歩代わりに名家の周りを回ってみる。門の前で表札を読んでいたら執事の中村、という人物に声をかけられる。しくじったと思ったがはやり不審者扱いである。どうやらオカルト好きの婦人が娘が誘拐されているというのは本当のことであったらしい。しかもその第一容疑者にNがあがっているのである。また何故、と思うがなんでも橋に少女と一緒に居るところを目撃されたようだ。刑事に下手に疑われ第二の容疑者になるのはごめんである。早々に退散した。
 しかし誘拐事件とは。話の為と、暇つぶしの為に今後疑われない程度に探ってみたい気もする。今度Nがうちに来たときにすこしばかり聞いてみよう。Nはなにをやっているかわからない男だが、犯罪に手を染めるような男ではないのである。きっと近いうちに飄々と下宿を訪れるだろう。今日にでも手紙を書いて見るとするか。


参月拾参日
 I氏が下宿に訪れ原稿の進み具合を聞いてきた。全く進んでいないが、構想だけはと嘯く。怪異ものなんて領分じゃないのにすまなかったね、と謝られた。たしかに私は今まで推理ものばかりを書いてきたが、周囲につまらんつまらんといわれるばかりだったので特に謝られる理由もなかった。むしろ致命的につまらないらしい私の推理物をよんでよくI氏は怪異ものをかかせたいと思ったものだ。なんでも私の話は致命的に説明不足であるらしい。推理物で説明不足とは大層な問題だ。しかし私は説明しすぎは無粋だと思うのでもうしかたないのだ。
 その点は怪異小説には良いものらしい。なるほどと思う。説明不足も空白の美ということだ。I氏が甘味でも、というのでありがたく相伴に預かることにした。行き先はよく訪れるというパーラーである。Fという名を聞いたとき近頃書斎がわりに使っているパーラーであることを思い出したが、特に言わなかった。しかしはて、ほとんど一日中居る日もあったのだがI氏と会った事はなかったように思う。まぁ、たまたまなのだろう。I氏は上機嫌で、なにか色々と話してくれる。最近、陸軍とのパイプが出来たらしく金が潤って言うのだそうだ。このご時勢に陸軍とは血なまぐさい話である。そういえば今日は随分と陸軍兵士を見かける。隣の机の女学生達がまたあの書生の噂をしていた。その声が聞こえていたらしいI氏がそういえば、この前噂の書生君を見かけたよ、と言った。あれは本当に綺麗な顔だ。御伽噺の王子様といわれても頷くね。人間から生まれたとは思えない。など興奮気味に語るので、I氏には男色の趣味などあっただろうがと思うが、心当たりはない。人とはわからないものだ。しかしI氏の言ったその書生そこまで言われると逆に見たくなってくる。I氏には悪いが、見た暁にはこき下ろしてやろうと決意する。
 帰り際にその書生を見ないかと辺りを見回しながら帰ったがそれらしき人物は見当たらなかった。見たらわかるよとI氏は書生の外見を詳しく教えてくれなかったのだ。とにかく綺麗だ、としか言わない。曖昧すぎてよくわからなかった。家に帰ったらNからの返事が来ていた。最近金がないので酒はなくてもいいか、との事だ。こちらで用意しておこうと返事を書き、その日は寝た。


参月拾五日
 話を書き始める。今回の形式は日記の形をかりようと決意する。日常の中の些細な違和感が最終的に怪異として結実するのである。構成をねりはじめると考えが浮かびとりとめがなくなる。よくない兆候だと感じるものの一応すべて走り書きしておこう。出だしは、今の自分の身にあわせて故郷に帰る間際のしがない売文家だ。男が出版社の突然の依頼を受けて鬼つきの家を調べ始めるのだ。悪くは無い。鬼憑きの家の娘は大層綺麗で、名を、そうだ、カヤにしよう。パーラーにいる女学生達の憧れの的であるらしいのだ。駆けおちしたとの噂だが、それも面白い。さてとりかかるとするか。


参月拾九日
 割合に筆が進む。いい調子だ、と思っていたらNがやってきた。酒が飲めると知って手紙を受け取ってそうそうにやってきたらしい。お前探偵事務所はいいのかと告げると、最近助手がきたからね、と酒を探しながら言う。探偵なんていう怪しい職業につきたいものもいるのだと、大して変わらない胡散臭さをもった自分がいうのもどうだろうと思うが、それはめずらしいなという。まぁ、あの子は色々訳ありだからねぇ、と呑気に言うが、訳あり探偵助手はこの自堕落な探偵所所長に振り回されているわけだ。合掌と手をあわせて酒を飲む。そういえばお前、近頃警察に疑われているそうじゃないか、というと、そうなんだよー凄く面倒くさいんだよねまぁ疑いは晴れたけどと酒を煽っていた。事件について突っ込もうとすると守秘義務がなどとありもしないことを言って話そうとしない。仕方が無いので探偵助手について突っ込んでみる。Nは、あぁ、といって一度見たら忘れられないよと酒に酔いながら言う。どこかで聞いたような修飾語だと思いながらNと酒を飲み交わす。結局この間のような事になり、二日酔いで使いものにならなくなった。

参月弐拾日
 I氏が言っていた書生を見かけた。
 彼は、まるで鬼憑きの