love is blind 少年の耳の傷跡はすぐに治ってしまった。金の棒の耳飾はどこかにいってしまった。 ライドウの耳には傷跡すら残らなかった。それは当然でライドウには悪魔という人知を超えたモノを使役しているのだし、それを鳴海は知っていた。けれど時折あの夜の凶暴な執念が鳴海を悩ませた。もしライドウが鳴海の足にすがりついて泣いたとしたら鳴海はそれをひどく、心地よく思うだろうと思った。あのライドウが(そうまさに「あの」ライドウが、だ)自分の足元で無様に泣き、叫びあまつさえ言うのだ。鳴海さん、なるみさん、おれをみすてないで 「あ はは ははは」 それは本当にひどい想像だった。ひどく背徳的で甘美な妄想だった。聖母を辱めるような快感だった。もとよりたちが悪いのはライドウが、台所で酔って帰った自分のために粥を用意している事実だった。開け放たれた窓からは夏の生暖かい空気が流れ込んでいて、それはいつでも鳴海をやさしく包み込んでいたのだが、今日ばかりはそうではなかった。酒のせいであがった体温はただ不快であったし、あの柔らかな曖昧さは鳴海の妄想を叩ききってはくれなかった。 何を笑っているんです、とライドウは粥をもって応接間にはいってきた。 「素麺の方がよかったですか?」 つくりなおしましょうか?というライドウを鳴海は制した。いいや、と黙って粥を食べる。暖かさは夏の夜は不快でしかなかったが、胃にはやさしいような気がした。すくなくとも揚げ物のように食べて気持ち悪くなることもないだろう。 ライドウは鳴海が笑った理由を問いただしはしなかった。鳴海はそれを確かに有難いとおもったのだけれども、同時にとてもいらだった。鳴海さん、あなたの望むままに、とライドウはあの日言った。真っ白な耳から伝う血液の眩暈のするほど鮮やかな、なんとも血なまぐさくて反吐がでる風景だったことだろう。あの風景を鳴海は忘れられなかった。 ああ、どうせ 「ライドウは俺にすがりついて泣いたりなんかしないだろう」 お前は俺を何かのときに選んだりしないだろう決して。 それでよかったのだ、だからこそ鳴海はライドウのその姿を好んでいたのだから。無常なほどの決断、人とは思えぬその冷酷さ、ともすれば幼さを。けれどこの矛盾。そのようなライドウが自分にすがりつくということの絶望的なまでの優越感。そうまぎれもない、優越感だ。言ったことに後悔がなかったといえば嘘になる。鳴海は言葉がころりと喉からもれたのに真実あわてたし、それを取り消したいとも思った。けれど同時にライドウに今自分がもらしたおろかな言葉を断罪してほしいとも思っていた。 小さな小さな三日月にも満たない月の光はそれでもライドウの顔を鳴海に写した。それは西洋人形のように美しく拷問台のように残酷だ。ライドウはしばらく鳴海の顔を見つめたあとひどくゆっくりと笑った。涼やかな薄い唇が動いて笑みの形になった。そして喉からはギロチンの刃のごとく、きっぱりとした声が。 「しましょうか、あなたのひざにすがりついて、泣きましょうか、今」 ほら こ う し て ライドウはいつものあの丁寧で美しい動作で鳴海の前にひざまずいた。鳴海は上げた膝のなんと硬そうなことだろうと思っていた。あの膝を割るのにはきっとひどく力が要るだろうと。 「鳴海さん、どうか」 ライドウが漏らした声はひどくせっぱつまっている。悲しくて、透明な声だ。鳴海はライドウのそのような声ははじめて聞いたと思った。ライドウの顔はうつむいて見えなかった。 「どうか、おいていかないで」 ライドウはきっと笑っているのだ、と鳴海は思った。月の光が弱すぎて見えないが、笑っているのだ。粥は机の上でぐずぐずと腐っていくような気がした。白米の甘い匂いが鼻についてはきそうだった。 お願いです、どうか、俺をみすてないで、いかないで。どこにもいかないでください。 そういいながらライドウは鳴海を見た。ライドウの瞳からは演技とは思えない声と同じくらい透明な涙が見えた。どうかどうか、おれを、おいていかないでください。なんて悪夢だ、と鳴海は思った。絶望的な優越感を抱くに違いないと思っていた光景は現実になれば悪夢としか思えなかった。ライドウの自分にすがる顔のなんと惨めなこと。なんと美しいこと。 もし自分がそういうライドウを抱きしめてやれるくらいに傲慢であったなら、もし自分が泣くライドウにだまされるくらい愚かであったなら、もし自分がそのようなライドウを許せるくらいに優しかったなら。けれど鳴海はそれほど傲慢ではなく、愚かではなく、優しくはなかった。鳴海の心を占めるのは罪悪感と苛立ちだった。苛立ちはこのような悪趣味な演技に対しての、罪悪感はこのようになるまで「あの」ライドウを壊してしまったという事実に対しての。鳴海の中で少年はいつだって一人たっているさまが美しく、そのもろいまでの強さがまぶしかった。 「…やめろ…!」 だからこんなライドウは鳴海にとっては悪夢でしかなかった。 「鳴海さん、どうかこんな俺をゆるして」 酒のせいだ酒のせいだ酒のせいだ。でも飲んだのは、俺だけだ。じゃあきっとこれは悪魔だこんなライドウ、俺はしらない。 「やめろやめろやめろやめろ!!」 ください、とぽつりとつぶやかれた言葉を最後にライドウの声はとまった。鳴海はライドウを見る。ライドウは笑っている。今さっきの数瞬がまるで夢だったかのように。酒の幻覚であったかのように。そして断頭台の刃のような声で言う。 「ほら、こんな気持ち悪いことはお望みにならないほうがよろしいんですよ」 粥がさめます、とライドウは涙の跡が残る頬を隠すことなく言う。月の光が弱すぎて鳴海にはライドウの真意は汲めなかった。 「ライドウ」 「なんですか?」 いったい、なにがしたいの?と聞こうとして鳴海は口を閉じた。あぁ、そうだ彼は言っていたじゃないか。鳴海さん、あなたの望むままに。 粥が入っていた皿を流し台につけてライドウは自室に戻る。廊下でライドウは猫を見つけた。黒猫は天鵞絨のような毛並みを月にすかして優雅に伸びをしていた。ライドウはそんな猫の様子に微笑む。 「ゴウト、いったい今までどこに?」 ゴウトはすこしの間ライドウの顔をじっと見て、ライドウに問いかける。それはライドウの質問に対する答えではなかった。 「…あれはどこまでが演技だ?」 ゴウトの問いかけにライドウは間をおかずに笑う。それはあまりにも美しい笑みだったので、ゴウトはそれ以上の言葉を紡ぐのをやめた。それが嘘であるか誠であるか知っても何も変わらないのを分かったからだった。ただこの夜の夏の生暖かい空気がライドウとあの悲痛な顔で叫んでいた鳴海の記憶を押し潰す様にと願った。いや、もしかしたら、このまま闇に潰されてその生さえも途切れてしまったほうがいいかのような気さえした。 「ねぇ、ゴウト、あんなことはね、気持ち悪いんだよ、そうだろう?」 そういってライドウは依然ひそやかに笑い続ける。 |