ピアス どうして、と少年が聞かないので男はさらにいらだつ。ぬるりと首筋を這う血を男は美しいと思った。なめ取りたいとも思ったが、なめ取ったとしてもどうせそれはただの鉄くさい、まずい血液であろうと思いとどまった。どんなに美しかろうと少年と男の体の構成要素は同じだし、それはひいては血の味も同じだという事だと思ったからだ。 男は金剛石が嫌いだった。翡翠も青玉も紅玉も藍玉も蛋白石もとにかく宝石と名のつく物は今この瞬間男にとってはこの上なく汚らわしいものでしかなかった。少年は眉もひそめない。男はそれにもいらだって、少年のあごを無理やり掴んだ。彼の頤は綺麗で、そして冷たい。 「何を、思ってる?」 自分の声はなにかを茶化すような響きを含んでいる、と男は思った。自分の表情がこわばっているのは笑いを浮かべるのを抑えようとしているからで、なぜ抑えようとしているかといえば笑い出したが最後この少年を殴り飛ばし地に這い蹲らせ、自分に泣いて許しを乞うまで痛めつけてしまいそうだからだった。(少年は間違ってもそのようなことをしないだろうという事実もまた男の嗜虐をあおった) 少年は男がそのようなことを思っているのをまるで知らないかのように(あるいは知っているかのように)ただ無表情でいた。 「いいえ、何も。何も、思ってなどいませんよ、所長。」 所長と少年が男を呼んだのは今となっては久しく、男は少しばかり面を食らった。首筋に伝う血はわずかしかなく、それはすぐに乾いてぱらぱらと床に落ち見えなくなってしまうだろうと男は考えた。 「どうして?」 そういいながら男は少年の耳に触れた。正確には柔らかな耳に貫かれている金属の棒をちらちらと揺らした。少年はそれでもやはり表情を変えなかった。 「何の意味もないように思うからです。」 所長、ともう一度少年は男に呼びかけた。男は観念したように、表情のこわばりをといて息を吐き出して、目を瞑った。 男は宝石などは嫌いだった。今この瞬間は、この夜はともかく本当に汚らわしくわずらわしく、己の手の中にあるそれが一刻も早く消え行く事を願った。一対の金剛石を金の細い棒に冠したそれは、耳につける装飾品で、しかしイヤリングとも違うものだった。さして使うという。化けることに対する執念というのは自分の身を傷つけることを厭わなくするのだと男はすこし面白がってそれを手にした。 (針で穴をあけ、それを固定し、皮膚になるまで。やわい耳たぶに小さな穴が穿たれ、ずきりずきりとたいしたことはないが無視も出来ない痛みが頭のすぐ横でする。それに耐えそして痛みも感じなくなり、皮膚になるころにその金属のそれを通すのだと。通すのだと、ライドウ。) でも、そんなことお前はしなくていいよね、と特にとがってもいない棒の先をぎりぎりと耳に押し付ける。ぎりぎりと。それは跡になる位押し付けるという生易しいものでなく、じっくりとじりじりと圧力に負け棒の先の皮膚が破れ、肉に埋め込まれていく感触が手に残った。 少年は止めなかった。気が済むのならそうすればいいと言いたげな顔をしていた。痛みに目を細めも眉をひそめもしなかった。どうでもいい、貴方が望むなら、そういわれたような気がした。男は違うと思った。そんな顔が見たいのではない。もっと心乱れて、動揺してくれなければ。泣き叫び、許してくれと足元にひざまずいていってくれなければ意味がない。この狂行の意味がない。 金剛石は複雑なカットを施され月の光を幾筋もその体内で反射させている。それが血に紛れてきらきらと光る。首筋を伝う血には興奮も喜びも感じられなかった。(当然だ。もとより男にはそのような趣味などはなかったはずであった。) 「…そうさ、意味なんてないさ」 男は観念したようにそうつぶやいた。意味などないのだ。ただ少年が取り乱すところが見たかったというそれだけか、それか殺したいとか貫きたいとか、犯したいとかどうせそのような下らない望みの代償行為のようなものなのだろう。自分の分析などして何が面白いと男は嘲った。自分を嘲ったのだろうと思ったけれど、それはわからなかった。もう自分が分からなかった。 男の様子に少年はゆっくりと微笑んだ。ぽたりとかぬるりとかそういう擬音でもって表せる粘度で耳朶から血液が伝っていく。落ちていく。男は少年には赤が良く似合うと思った。金剛石は月の光をきらきらと、きらきらとさんざめかせ男の目を射る。 「…鳴海さん、貴方の望むままに」 どうして、とこの狂行の理由を男に少年が聞かないことが男をいらだたせる。男の手の中にはもう一本のピアスがあり、そして少年の左の耳はまだまっさらに白い。男は今にも笑い出してしまいそうな自分を抑えてもう一方の耳に手を伸ばした。 こんなことをしてどうするという声が頭のどこからかした。わからない。理由なんかない。意味なんか、ともう一人の自分が答えた。少年は何も聞かない。だから理由なんかないのだ。 少年は伸ばされる手を払い落としはしない。ただ微笑んでいて、男は少年が何を考えているかなどわからない。少年は何も考えてなどいないからだ、と男は思った。俺が笑うまでそうして耐えていて、とも。そうして地に這いつくばって、俺に許しを乞うまで。自尊心や誇りやなにもかもぼろきれのようになるまで。 俺を許し続けてくれ、と誓いの宝石の光を見ながら男は思った。 |