胸の内で睡蓮は囁く 胸に咲く睡蓮の青さも、あなたの恋の証にはならない。 ライドウは不意に目を見開いた。高い位置にある陽光が少年の瞳に投げかけられ、うっすらと青く見えるのを少女は興味深く見つめていた。瞳を青く見せている陽光に梳ける少女の髪は青によく似合う金色のものだった。ちらちらと陽光を遮るのは虫が飛んでいるからだろうか。 「アリス」 少年がくぐもった声で咎めるように少女の名を呟いた。少女の白人らしい白皙の陶器のような指が少年の喉にひっそりと触れていたからだ。アリス、と呼ばれた少女は嬉しそうにくすくすと笑った。喉骨の上にのせていた指がするすると移動し、心臓からまっすぐに伸びる動脈の上に置かれる。ひんやりとしたその冷たい感触に、ライドウは眉を顰めた。それをアリスは認めると殊更満足そうにため息をついた。 「ねぇ、ニンゲン、マグ頂戴」 ぶぅんと視界の端をなにか黒いものが横切る。頭が霞がかって上手く動かなかった。 「もうやっただろう」 「やだ。あれじゃ足りないわ。」 だって今日は夏至なのだもの、とアリスが呟いた。そういってライドウを見つめるアリスの瞳は芯から青く、ライドウはそれがいつも少しばかり空恐ろしい気がした。瞳の底のない様子が何かを思い出させるのだ。 「だからなんだ」 ライドウが冷たくそういうと、アリスはその薔薇色の頬を膨らまして小鳥のようにやかましく騒ぐ。 「陽が一番長いのよ。高いのよ。太陽が一番近いんだわ。」 だからマグ頂戴!と騒ぐアリスがいい加減やかましく、ライドウはため息をつく。今日はどうにも体調がよくなかった。やたらとだるいし、管の中の悪魔も騒がしい。そういえば今日は満月なのだ、と気付く。アリスは、他の悪魔とは少し性質が違っている。無理矢理封魔されたのではないだけに、他の悪魔より多少行動の自由が利いている。だからこのように満月の日にたまたまライドウの体調不良などが重なると管から出てこれるようになってしまう。 「だいたい何でマグを欲しがるんだ」 「ワタシ聞いたのよ!知ってるんだから。ニンゲンがマグたくさんくれればワタシだって他のニンゲンに見えるんでしょ。」 ライドウはアリスの言葉に目を細めた。確かに悪魔にマグを与え続けると、一般の人々の認識を得るまで存在の濃度が上がるのだと聞いたことはあるが、試したことは無いし、それが役立つとも思えなかったので試す気もなかった。 「誰に聞いた」 「もじゃもじゃのおじさん」 鳴海さんが?と不思議に思い呟くと、そっちのおじさんじゃなくて、お髭のほうとアリスは無邪気に答えた。 「…ラスプーチン…」 思わず頭を抱えたくなってしまった。どうしてあの男はこうも厄介ごとを引き起こすのだろう。ライドウは体の上に未だに乗っているアリスを振り落とす気にもならず、ぼんやりと窓の外のを見つめた。だるい。雨は降っていないが、もうすぐ振りそうな気配だけがする。雲のひとかけらもない空に、天気雨だろうかと思った。 ちょっと聞いてる?とアリスが尖らせる口は小さくかわいらしい。この様子だけ見れば誰も彼女を悪魔だなんて思わないだろう。 視界の端でちらつく虫が目にうるさい。 「だめだ」 にべもないライドウの拒絶にアリスはけち!と頬を膨らます。そして俊敏な動作でベッドから飛び降りると青色のワンピースをはためかせ、ホルスターごと銀色の管を胸に抱いた。 「ニンゲンがそういうなら、私家出するわ。赤おじさんと黒おじさんとこの子達で夢の世界をつくるんだから!」 いつかみたいに!そうホルスターを握り締めながら叫ぶアリスを見ながら、ありえもしない違う世界の結末をライドウは笑った。笑ったが、もうそれで終わりだった。ライドウの笑みは彼自身のいつもの無表情に隠されて分からなかったし、アリスは読心術を使うほど冷静ではなかった。わかった、とライドウは仕方なく呟く。 「ただ、管に呼んだら帰って来い。」 ありがとう、ニンゲン!とアリスははしゃぐ。マグネタイトは無尽蔵に在るわけではない。悪魔を切り伏せれば得ることも出来るが、それは今の体調ではさけたかった。最悪の場合には生体マグネタイトを僅かだが自身で作ることも出来るが、悪魔を切り伏せる以上に避けたい事態だった。あれは酷く疲れる。生命力をそのまま吸い取られるような気さえする。(実際は似たようなものかもしれないが。) ライドウはもう一度ため息を深くついて、管を経由してマグをアリスに送り続ける。アリスは質量としての存在感をどんどんと増していき、そしていっそライドウよりも生命力にあふれたように見えた。その金糸の髪は陽に透けて輝き、薔薇色の頬と唇はいかにも瑞々しい。コバルトブルーのワンピースは少女の陶器の肌によく似合っていたし、瞳はアクアマリンのように色づいていた。底のない瞳は、けれどやはりその少女が悪魔だということを物語っている。 少女は自分の手を確かめるように一、二度開いたり閉じたりして、部屋の中を飛び回っていた虫を手で叩き落した。そして満足そうに笑う。 「これから銀座にいくのよ!素敵な服をいっぱい見て、着るんだから。おじさん、借りるわ。」 そういってアリスはあっという間にライドウの部屋からパタパタと扉を開けて出て行った。 「絶対におじさんがいいんだもの。」 にこやかに笑うアリスは、瞳に底意地の悪いものを隠している気がした。アリスは知っているだろう。ライドウが鳴海を憎からず思っていることも。それに心乱されている事も。だからアリスは管から出るのだし、ライドウは結局のところ言い負かされるのだ。 隣から鳴海の驚いた声と、アリスのきらきらとした声が聞こえる。ライドウは酷く顔をしかめて、舌打ちをしたい気分だった。管の悪魔達が同情したようにため息をついた気がする。ライドウはゴウトに会いたいと思った。あの黒猫にあって、全て吐き出してしまいたかった。 あ、雨。と傍らの少女が呟いた。繋がった手はひんやりと冷たくて、蒸し暑さに反して汗をかいたりはしなかった。確かに窓の外ではぽつりぽつりとどこから降るのか分からない雨が降っていた。天気雨だ。ライドウには先ほど声をかけたが(もういい加減、目の前の少女の面倒を見るのに疲れてきたいたのだ)よっぽど疲れているらしくベッドでぐったりと寝ていた。疲れて横になったらそのまま寝てしまったというような、ぞんざいな体の放り出し方だった。 「雨とか体があると不便なのね」 「そうだよ。物も食べなくちゃいけないし、寝なくちゃいけない。起きなければならないし、他にもやることはたくさんだよ。」 「ニンゲンって不便ね」 「君もニンゲンだったんじゃないの?」 そうよ、とアリスは面白くなそうに答えた。そうよワタシも昔はニンゲンだったわ。 「でも今は違うわ。ワタシは悪魔で、ニンゲンには出来ないことも出来る。」 「例えば?」 アリスがあんまりにも無邪気に、そして自慢げに言ったので鳴海は思わず聞き返す。それは多少の意地の悪さを含んだ問いだった。何を言われても、それを叩き返すつもりだったからだ。 「心が読めるの。」 帰ってきた答えは予想の範囲を外れているとはいえなかったが、当たっているとも思えなかった。心が読める?と聞き返す。天気雨の降る外は陽光がさえぎられないだけに彼方此方に虹が見えた。 「面白いね。俺の心も?」 「もちろんよ。おじさんが誰に恋をしているか、それがどれほど深いかまで」 そんな事までわかるのか、と鳴海は心の中で舌を巻いた。それもこの少女にわかっているのかもしれないと思った。読心術とは名の通り、心を読む術だ。ライドウが使役している限りは、アリスの行うそれは限りなく言語化されたものである。たとえば今、ライドウがアリスに命じて鳴海の心を読ませたならば、そんな事までわかるのかという驚きの言葉がライドウに聞こえるだけだ。それはライドウの思考回路がどこまでも言葉を頼っているからであり、それにアリスが影響されるからだ。けれどアリスが自分の力のみで読心術を行ったとき、それはイメージとしてアリスに伝わることになる。アリスには言葉そのものよりも、映像の方が分かり良かったからだ。 言葉で、気持ちの深さは測ることが出来ない。けれど映像なら言葉よりは容易なのである、とアリスは思っていた。 「恋は、胸に咲く睡蓮なの。それが美しくて、青ければ青いほど、恋は深いの。」 ふぅんと鳴海は面白くなさそうに返した。目に見えなければないものと同じだというのは鳴海の持論だった。見えぬものに興味は無いし、他人の心にも興味はない。自分が誰に恋をしているか位は悔しいが知っているし、その深さは鳴海にとってはどうでもよかった。深かろうが浅かろうが、手に入るときは入るし、入ったら幸せであるし、後の事はその時になってみないとわからないからだ。 鳴海の目の前でふっとアリスの瞳の虹彩が開いた。そしてにっこりと笑った。 「おじさん、ニンゲンが好きなのね。とってもすきなのね。綺麗な青だわ。夜の闇と昼の海の間の、深い青だわ。」 鳴海は酷く嫌な顔をした。アリスは面白がるように瞳孔を開いたまま、芯から青い瞳でくすくすと笑った。 「でも駄目よ。ワタシの方がニンゲンを好きよ。おじさんなんてすぐ死んじゃうもの。ワタシの胸の睡蓮はもっと青いの。」 だってそれが染みだしているからワタシの瞳も青いのだもの。鳴海はしかめていた顔を不意にゆがませた。それが笑顔だということにアリスは気がつくのが数瞬遅れた。その顔は本当に意地の悪い、笑顔だった。アリスは悪魔でさえあのような顔で笑うのは見たことがないと思った。 「確かめたんだね。君の胸の睡蓮はきっとさぞかし青いのだろうさ。そしてそれを自分ではっきりみたんだね」 「…見てないけど、きっとそうなの!」 大した自信だね、お嬢さん、と鳴海はアリスを煽った。アリスは悔しそうに、そうなの、そうに決まってるの!と繰り返す。そして鳴海は細心の注意を払って不意に思いついたように装って、あそこに鏡があるよと囁いた。 「鏡の自分にかけてみて。そしたら見えるでしょう?君の睡蓮。」 アリスはふいと鳴海から顔をそらして鏡の方へかけていく。少女のその膨らんだ頬の線は柔らかく滑らかで暖かそうだった。血色は頬から皮膚を透けて、淡いピンク色の薔薇のようだった。鳴海はふと、自分がライドウを好きであることに気がついた。それは前から知っていて、自明の事であったのだが、改めて深く思った。そして、アリスの思う壺なのだろうが、自分の胸にある睡蓮が夜の闇と昼の海の間の深い綺麗な青で在ることに少しばかり嬉しさを感じた。ライドウの胸に睡蓮は咲いているだろうかと思った。そうしてのその色はどのようなものなのだろうと思いをはせた。 自分は鏡に写らない事をアリスは知っていた。だから今まで自分に読心術などかけられるはずもなかったのだし、他の悪魔に頼むのはどうしてもいやで、想像するに任せていた。自分の瞳の青さをアリスは誇りに思っていた。それは胸の睡蓮の青さが自分の瞳と同じものだと思っているからだった。アリスは自分の胸を見つめ読心術をかける。自分の胸の、丁度右の肺の位置に、薄く白い睡蓮の形が浮き出てきた。それは細い頼りなげな茎を持つ、小さな蕾だった。蕾は先端から根元に行く間にどんどんと色を薄くしていき、そして鍔の近くでもはや白くなっていた。先端の色はまさに、アリスの瞳の青と同じ青だった。そしてそれは鳴海の色を見た後に比べるといかにも薄く見えた。 アリスは何度も確かめて、それが自分の瞳と同じ色であることを認めた。そしてそのたびに、鳴海の睡蓮の青さが思い出され、自分の色は薄く淡く見えるのだった。 ちがうわ、とアリスは呟いた。違うわ、違うわ。私の青は夜の闇の群青よりもなお清廉で、昼の海の翠よりもなお深いの。そうおじさんは言ったもの。 アリス、と不意にしたライドウの声にアリスは振り返った。そして自分の存在が急に薄くなるのを感じた。マグをもうライドウがアリスに送るのをやめたのだった。薄くなっていくアリスの姿に鳴海は一瞬驚いて目を丸くして、そして先ほどアリスに向けた笑顔とは全く違った穏やかな笑顔でライドウをみているのだった。アリスはそれが気に入らなくて、待ってといったがライドウは無表情のままだった。 「…管から呼んだら帰って来いって言っただろう」 「…ごめんなさい。気付かなかったの。本当よ。」 気付かなかったのは多分自分の胸を見ていたからだろう。もう自分の胸に睡蓮は見えなかったし、もとより鏡に自分の姿は写っていなかった。 「ライドウ、起きてきて大丈夫?具合悪いなら、今日は夕飯とか作らなくてもいいよ」 「別にそれほど体調が悪いわけではありませんから。ご迷惑おかけして申し訳ありません。」 ライドウは鳴海と喋っていて、アリスの事を振り返りはしなかった。管にしまっても、勝手に出て行ってしまうのを見越して今日は管から出したままにするつもりらしい。アリスは気に入らなかった。もう何もかも気に入らなかった。最初は少しライドウを困らせようとしたのだし、銀座に一緒に付き合って欲しかったのはもちろん鳴海などではなくライドウだったのだが、とてもではないが彼は一緒についてきてくれそうになかった。アリスは自分の睡蓮の美しさを努めて思い描こうとしたが、そうすればするほど鳴海のそれがでてくるのも面白くなかった。 えい、と心の中で掛け声をしてアリスはライドウに読心術をかけた。ぱりんと音がして弾かれると思ったが今日はそうならなかった。そう、ライドウに読心術をかけようとするとすぐに気付かれて拒否される。でも今日はライドウは調子が悪く、また人と話しているということもあったのでアリスのそれに気付かなかった。 はじめてみる、とアリスは思った。ライドウの胸に睡蓮は咲いていた。右の肺、心臓の裏側に。肺胞に根を張って、綺麗に開いていた。それは鳴海の青とは違う、翡翠がかった青だった。なんて綺麗、とアリスは思った。それはともすればアリスの睡蓮よりちいさく、そしてどの睡蓮よりも綺麗な色をしていた。 「いいな、いいな。あれほしいな。」 ワタシにむけられないかしら。駄目ならせめて一枚の花びらでも、とアリスは呟いた。その睡蓮の向かう先は自分ではないとアリスはとても悔しいが分かっていたし、だからこそいらだたしかった。今日は夏至の日。一年で一番陽が長い日。夜が短い日。短いからこそ、濃い日。そう、今日は満月。 アリスはそうだわ、と思いついたように呟いて、美しく笑う。 ライドウは不意に目を開いた。昼間にうとうととしていたから目が覚めたというわけではなく、ただ自分の首筋に白く冷たい指が置かれていたからだ。アリスと咎めるつもり出した声は音にならなかった。自分の首に指を置いているのがアリスではなかったことにライドウはすこしうろたえた。 「ねぇ、ニンゲン、ワタシお願いがあるの」 扉の辺りでアリスがふわふわと浮かんでいた。足首につけられている鈴がちりんちりんと耳を撫でる。ただ太陽がいないだけの、昼間の再現のように思えた。アリスの顔は逆光で見えない。ライドウは起き上がろうとしたがそうは出来なかった。体が酷くだるいのにくわえて、自分の体の上に載っている悪魔が強い力で自分を押さえつけているためだった。ライドウは反射的にゴウトの姿を捜す。あの猫が現れて、事態の収拾を図ってくれるのではないかという淡い期待と、こんな醜態は見せられたものではないだろうという気持ちが入り混じる。 「…ライ様、お慕い申してありんした」 「…っ…リャナンシー…」 首に置かれた手がするすると鎖骨を辿る。女悪魔の顔が近づいてくる。合わさる唇は冷たかった。ぬるりとした舌で吸われ、口腔を蹂躙されるのに意識が途切れがちになる。 「…っは…」 満月が目にいたい。リャナンシーは嬉しそうに目を細める。吸われているのはマグネタイトかそれとも生命力そのものなのかよく分からなくなってくる。頭に霞がかかっている。 「ねぇ、ねぇ、ニンゲン。あのね。ワタシにちょうだい、それ。」 アリスの瞳が暗闇の中輝いて見える。瞳孔が開いている。それ?とライドウは思った。アリスは一体何を見ている。 「…分からないならいいの。勝手に取るから。」 ライドウはアリスが読心術を行っているのに気付き、アリスのほうを睨んだが顔を覗くことは出来なかった。 「つまんないの。綺麗なのに、見えなくなっちゃった。」 しゅっとアリスの瞳の輝きは見えなくなった。声は本当に残念そうで、鳴海が聞いたら心を痛めだろうとライドウはぼんやり思った。リャナンシーは酷く美しい笑顔で、ライドウの口にその指を含ませる。 「…ふっ…ぅん…」 ライ様、本当にお綺麗でありんす。食べてしまいたい。リャナンシーの目が不意に鋭くなるのに、ライドウは久しぶりに背筋を冷やした。今日は満月で、悪魔は暴走しやすい。本当に食べられてしまうかもしれないなとライドウは思う。扉にいるアリスも助けにはならないだろう。むしろこれを仕掛けた本人であるような気さえした。鳴海を呼ぼうかと思ったが、悪魔の見えない彼が一体何の役に立つだろうと思い、それ以上にこんな姿を見られたくないという気持ちが声を押しとどめる。 「…ん…っぁ」 リャナンシーの指が舌のつけねに触れそうになり、ライドウは思わず咳き込みそうになる。生理的に浮かぶ涙に悪魔は微笑む。そのまま片手をするすると服の中に差しいれる。そして面白おかしそうに指を口から離した。 「リャナンシー…!」 ライ様駄目でありんす。もう遅れてなんし。リャナンシーの手は冷たい。どうして悪魔の手とはすべからく冷たいのだろうとライドウは思った。わき腹をすべる指はひんやりとして、いやがおうでも意識してしまう。 「…ぁ…」 ライドウは別にこのような事に抵抗があるわけではない。女を抱くのも、男を抱くのも、抱かれるのもそれが任務だといわれればこなすつもりだった。悪魔が対価として、そのような事を要求するのも知っていた。けれどこの状況は、情けないことに予想の範囲外だった。 「…あぁ!ゃ、ぁ…」 悪魔の手があられもない所を撫でる。その刺激に押さえ切れない声があがり腰が浮いた。下半身の熱で元もとかすみがかっていた頭はさらに働かなかった。アリスに目を向ける余裕が徐々になくなっていっているのが危険だと頭の隅で誰かが訴える。 「ライ様は色っぽいお方でありんすねぇ」 悪魔が満足そうにつぶやいてもう一度ライドウに口付ける。 「ん…ぁ…」 鼻から抜ける息のあんまりの甘さに驚いたがそれに危機を感じる理性はもうなかった。まるでそこにあるものを根こそぎ奪うかのような力が抜けて行く口付けだった。 「…ぅっん!…はぁ…っ。」 リャナンシーの左手はライドウ自身を弄ぶ。その様子を見ていたアリスはしばらく黙ったまま静かに笑った。 ライドウは昼間よりもさらにぐったりとベッドに寝転んでいた。目はぼんやりと焦点が合わず、アリスはそんなライドウを溜息を尽きながら眺めていた。ライドウの頬は上気していてアリスはそれに思わず手を延ばす。ひんやりとした手にライドウは気持ち良さそうに目を閉じた。 「…アリス…」 夏の蒸し暑い夜に溜息ともに呼ばれた自分の名前にアリスは喜びを覚える。弱り切っている自分の主人を、その事態を自分が招いたのにも関わらず、慰めたくなって優しく頬に置いていた手を滑らせる。ライドウは閉じていた目を開けてアリスを見た。アリスの瞳は月の光を受けてまるで色のないように見える。 「どうしてなんて聞かないで。ワタシはただマグが欲しいだけなの」 「もうないよ」 知ってるわ、とアリスはライドウの言葉に答えた。マグが無くなって、リャナンシーは管に戻ったからだ。アリスはその一部始終を見ていたが途中から自分がただの観客に成り下がっているのに気付いていた。アリスは今ライドウの目が自分を捕えている事が嬉しい。 「ワタシが欲しいのはね、ニンゲンのマグなの。」 最後の一雫の様な生体マグなの。アリスの瞳孔が開いているのにライドウは気付いていたが拒絶をする気力がもうなかった。 「そこまでお前にやったら俺は死ぬよ」 「わかってるわ。だから最後の一雫じゃなくてもいいの。ちょうだい。」 そう言ってアリスはライドウの頬に伸ばした手をそのままにライドウの体の上に乗る。重さはライドウには感じ取れなかった。喉骨の上にすっと置かれた白い指は滑らかに移動して心臓から真っ直ぐに伸びる動脈の上へ。いつだって命を奪えるその位置にアリスは指先をおく。ライドウはふっと柔らかな溜息吐いた。月光に落ちる睫毛の影を見てアリスは目を閉じてライドウにキスをする。唇も割り開かない、舌も差し入れない、ただの触れ合うだけのそれだ。けれどアリスは悪魔であるしライドウは召喚師だ。その気になれば死ぬまでマグを吸い取る事も出来る。ライドウは吸い取られていくその感触に抵抗しなかった。かりん、とアリスの口に小さな宝石のような物が放り込まれる。それを確かめると少女はライドウから離れた。掌に小さなそれを吐き出した。塊は小さく色はまるで彼の睡蓮。碧がかった青に輝く翠玉。きらめくエメラルド。小指の爪の半分もないそれを持ち続けていられないのがアリスには酷く悲しかった。生体マグを持ち続ける事はできない。それは異界に消えるか悪魔に取り込まれるかの二者択一だ。アリスはそれをさんざん眺めて意を決して口の中に放り込んだ。睡蓮の種。心臓の裏側に根付くように。 それは砂糖のように甘く香しい。アリスは泣きたくなる。これが恋だと思った。そうして笑って口の中の小さな塊が消え失せる前に管に戻った。ライドウはしばらくぼんやりと床に転がった管を見つめ溜息をついた。 そう、胸に咲く睡蓮の青さもあなたの恋の証にはならない。 |