境目に関する四つの言葉遊び






1.コペルニクスとガリレオ・ガリレイ
 その日は朝から曇っていた気持ちの晴れない日だった。休日だからだろうか、人々は天気に左右されることなく賑やかに通りを歩いている。ライドウは窓をぼんやりと見ながら、全く進まない宿題の存在を頭の隅に追いやって詮無い事を考えていた。例えば曇りの日はどうしても目がちかちかとするとか、日溜りで昼寝をする猫たちは曇りの日にはどうしているのだろうとか、そういう下らないことをだ。
 鳴海は相も変わらずだらだらと所長机に座り、煙草をすいながらぼんやりとしている。ゆらゆらと昇る紫煙は応接間の天井辺りにわだかまっていた。
 「…あ…」
 突然鳴海は呟いた。ライドウはその声につられてなんとなく顔を鳴海のほうへ向けた。珈琲を飲みたいなどというのだろうかと思い、立ち上がりかける。
 「こういうのをコペルニクス的転回っていうのかな?」
 鳴海の意図の読めない呟きに、とりあえず自分が台所へ行く必要などなさそうだと思ったライドウは立ち上がるのをやめてまたぼんやりと窓の外を見る。雲の隙間から薄い光が差していた。随分前に鳴海に詩的な言い方を教えてもらった気がするがよく思い出せなかった。
 「…俺さ、ライドウの事なんか苦手だなって思ってたんだけど、どうやらライドウが好きだったみたい」
 鳴海がそういうと同時にライドウはその言葉を思い出す。そうだ、天使のはしごだ。言いえて妙というか、気恥ずかしいというか。それが様になってしまうのだから鳴海はやはり伊達男とかいう分類に入るのであろう。
 「それは…コペルニクスもびっくりですね。まさしく転回です。何故突然、そんな事を?」
 ライドウはぼんやりとした頭のまま鳴海のほうを向いた。高等学校の教本はいつだって難しくててこずるものばかりだ。
 「世界の果てに落ちるみたいに気付いたよ」
 世界は丸いから果てはないけれどね。もし世界が丸くなかったら俺は海の果てでどこまでも落ちていってしまうから、コペルニクスが世界は丸いのだと発見してくれていてよかった。
 鳴海は下らないことを延々と喋っている。ライドウもぼんやりとした頭で今は地球が丸いとか海の果てとかいうのよりも大変なことを言わなかっただろうかと思ったけれどそれは上手く言葉にはならなかった。
 「…地球が球だといったのは、ガリレオ・ガリレイではなかったですっけ?」
 代わりに口をついたのはなんて事のない疑問だった。日本史は仲魔が教えてくれるのでライドウは苦労したことがないが世界史となるとまた話は別だ。今の時代、異国との交流も増え、異国の悪魔が増えた。世界史の試験を受けているときにだけライドウははやく異国の悪魔が仲魔になってくれないだろうかとそんな事を考える。
 「あれ、そうだっけ?」
 「俺も記憶が曖昧なので確かなことはいえませんが」
 ライドウの言葉に鳴海はしばらく考え込んでから、いやいや、そうじゃなくてさ、とライドウに話しかける。
 「俺、ライドウが好きみたいよ?」
 なんてあっさりと鳴海は言うのだろうとライドウは思った。自分が馬鹿みたいだと。宿題なんて部屋で出来るのに、こうして応接間でやっている自分の浅ましさに時折嫌悪したほどだというのに。
 「…俺も鳴海さん好きですけどね。随分前から。」
 淡々とそういうと鳴海は酷く驚いた顔をしていた。ライドウは鳴海の顔をみて眉を顰める。
 「何ですか?」
 「いやいや、これこそまさにコペルニクス的転回」
 まさかライドウが俺の事好きだと思わなかったからさ、と鳴海は軽く笑う。ライドウはため息をついていった。
 「というか転回が二回起こったら元に戻ってしまうじゃないですか」
 ライドウの言葉に鳴海は笑う。
 「つまり特に悩む事なんてなかったってことだよ。」
 鳴海はライドウの座っている机までこつこつと歩いてくる。ライドウはぼんやりと鳴海の右手の煙草ばかりを見ていた。そこでようやく気付く。なるほど自分は驚いていたらしい。だからこんなにも瑣末なことに気がむくのだろう。鳴海は満面の笑顔でライドウの机の前にやってきてライドウの顔を覗き込む。ライドウは近づいてくる鳴海の顔を見ながら、ガリレオ・ガリレイはなんといったんだっけと思った。
 あぁ、そうだ。それでも地球は回っている。


2.価値と無価値
 それでも地球は回るのだ。俺たちの事情なんか全く構わずに。ライドウは酷く乾いた顔をしていた。海に落ちていく月は大きく柔らかい。ライドウは月の光に照らされながら静かに、まるで真理でも話すときのような毅然とした口調で話していた。
 「あらゆるものに平等に価値はありますよ」
 波打ち際はきらきらと光っていて、海風は冷たかった。俺は冷たい空気を吸い込んで言う。
 「お前がそんな事いうなんてね。平等な価値なんてありえないこと。」
 俺の言葉にライドウは静かに笑った。月の灯りは夜を照らしたが、太陽ほど全てを照らすわけではなかった。それが良いことだとその時は確かに思った。
 「価値が平等なのではありませんよ。価値があるという事実が誰にも等しくあるという、それだけです。」
 その言葉に今度は俺が笑う番だった。潮騒の音は誰かの嘆きの声のようにも聞こえた。あの不吉な鳥の姿はもう見えない。俺は常に多少の疎ましさをゴウトに感じていたはずなのに、それでもライドウの横にその口うるさいお目付け役の姿がいないのは痛ましい感じがした。少年の体の一部が欠けてしまっているかのような不安定さを必要以上に感じた。
 「こうやって今ここでぼろくずのように捨てられるお前にもか?人一人をぼろ屑のように捨てるヤタガラスにもか?そのようになるお前をただ黙ってみていることしか出来ない俺にもか?」
 言っていて俺は酷く落ち込んだ。ライドウは俺の言葉に、そのような事をいうものではないです、と言って笑った。海風はどうしていつもこんなに湿気を含んでいるのだろう。
 「価値の判断基準は立場の相違でしかありません。それにたとえ無価値だとしても」
 ライドウは綺麗に笑う。もう何も執着するものがないというような、綺麗なそれ。
 「それは無価値という価値です。」
 俺はそれがいやで、何も求めるものがないのだと少年が思っているのが憎らしかった。そんなわけない。そんな訳は、ない。
 「矛盾してる。ただの言葉遊びだ。」
 俺の半ば八つ当たりのような言葉にライドウは笑う。
 「鳴海さん、言葉遊び、お好きでしょう?」
 「馬鹿にしてるの?」
 八つ当たりのような言葉はしかし本心から出たものだった。ライドウの言う、誰にも平等に価値があるなんてなんの救いにもならない言葉だった。それはライドウにとっても、俺にとっても。ライドウは俺の言葉に小首をかしげて笑った。
 「まさか愛してるんですよ」
 俺はライドウの残酷な言葉に笑う。ライドウは俺を愛している。ゴウトを愛している。帝都百万の民を愛している。悪魔を愛している。でもそんな愛は俺にとっては全てに無関心だとライドウが言っているのと同じことのように思えた。全ての人に等しく注がれる愛は無関心と同義だ。
 海は常にその体に愛を抱え込んでいる。ライドウは海を見つめながらひっそりと笑う。俺はただそんなライドウを見ていた。


3.狂気と正気
 何故そんな話になったのだろうとライドウは業魔殿の主人を見ながら思った。業魔殿の主人は笑いながら自説を披露していた。
 「真の狂気とは狂うことではない」
 医師は言う。
 「真の狂気とは人と違うものを見ているのに正気であるということだ。」
 ライドウは暗がりの部屋の中でぼんやりと浮かび上がる医師のヒステリックな動きを見つめていた。彼はもう百年を超える月日を生きているらしいと聞いた。それと引き換えに昼間は外に出ることが出来ない。太陽が恋しくならないのかと問えば、我輩になんの意味があろうとつき返される。そのような狂気に近い強さにライドウは多少の憧れを抱いていたのかもしれない。
 「果物が人の生首に見えたとしよう。見えるということ自体はすでに狂っているのかも知れんな。だがそれは悪魔が見える我々と本質的な事実としての違いはそれほどない。どちらも他人に見えないものを見てしまうという点では同じものだ。そうだろう、葛葉?」
 ヴィクトルの突然の問いかけにライドウは驚いて頷いた。
 「果物を見て悲鳴をあげるのは狂気だ。何もない空間をみて怯えるのもまた狂気だ。だが生首を見て悲鳴を上げるのは正気であろう。そういう意味で狂人の反応は正常なものだ。正気のそれだ。狂気とは、生首を見ながらもそれを常人と同じように食することだ。」
 お前も我輩もそのような意味では狂人だと思うかと聞かれ、ライドウは曖昧に流した。肯定も否定もする気は起きなかった。それを見てヴィクトルは面白くなさそうに首をすくめた後つまらなそうにいった。
 「真の狂人はだから決して見つかることはない。こう考えると正気と狂気の差などあってないようなものだと思わんか。」
 ヴィクトルはそう問いかける。ライドウは曖昧に頷く。ゴウトは面白くなさそうにライドウの膝の上で丸まって悪態をついていた。正気も狂気も結局は人のうちにあるのものだという事実に変わりはあるまいと、猫の姿をしたお目付け役はいった。
 

4.本当と嘘
 「言葉遊びに意味なんかないですよ」
 ライドウの言葉に鳴海は首をかしげる。
 「でも、隠された真実がある場合だってあるじゃないか。戯言が核心を突いている場合だってあるだろう?」
 「…けれどそれは稀な場合です。大抵の言葉遊びにはなんの意味もない。それは本当にただの戯れです。」
 窓の外は曇りだ。雲の隙間からは太陽の光が差し込んでいる。それは天使のはしごとも呼ばれる。それだって言葉遊びだけれど、やっぱりその言葉には力がある。それだけ美しいものだ。けれど鳴海はそれを特に言う気にならずに、そうかね、と答えた。ライドウはそうですよ、とそういって手元の本に視線を落とした。
 鳴海はライドウの様子を見ながら、ねぇ、と呼びかける。雲の隙間からもれる光は天使のはしごというのだってと教えるつもりだった。それは戯言で言葉遊びだけれども、こうしてライドウと話すきっかけにはなるだろう。言葉遊び自体になんの意味がなくとも、それから繋がる行為や、やりとりに意味はあるのではないだろうかと鳴海は思った。
 天使のはしごは天からその光を下ろしている。