暖かい頬 大正の晴海町の震災から二年後、ようやく酒を酒として飲めるようになった。初夏の夜更け、闇にまぎれているにも関わらず鳴海は黒猫を見た。月が明るすぎて星の見えない夜だった。真っ黒なその猫は淡く光る緑の眼をしていた。立派に成長した、子猫とは到底思えない大きさの猫は、鳴海を見つめて一声ないた。鳴海を見つめるその顔はいつかの猫にそっくりだ。(とは言っても鳴海には猫の区別はあまりつかない。黒猫ならなおさらだ。)酔いでふらふらした頭で猫に笑いかける。 ようやく、酒を酒としてのめるようになった。何かを忘れる為でも思い出す為でもなく、ただの嗜好として。だからその行為はただの気まぐれに過ぎなかった。ほら、熱くないんだよと火のついた煙草の先を指でもみ消して見せて回るような、もう大丈夫だと自分をことさら誇示したいようなそんな気持ちだった。 「なに、ゴウト?なんか用?」 いいながら鳴海はまさか、と思った。まさかありえないからいうのだし、有り得ないから試すのだと。最後に見たあのお目付け役は鳥の姿だったことを鳴海は悔しいけれど覚えていた。傍から見たら自分はただの猫好きにでも見えるのだろうか、と鳴海は笑い出してしまいたくなった。それとも頭の螺子の外れた男とでも笑われるのか。 猫は尻尾をゆらりと上げてもう一度鳴いた。猫に近づいて頭をなでようとしたが、猫はするりと鳴海の手をかいくぐった。鳴海は一段と笑みを深める。この猫の仕草があまりにもあの黒猫に似ていたからだ。そんな鳴海の顔を猫はしげしげと見て、やがて興味を失ったかのように暗がりの路地へと歩き出した。曲がり角に消えるその直前、猫は立ち止まって鳴海を見つめ、にゃあ、と鳴いた。あがっている尻尾はゆらりゆらりと鳴海を手招きするかのようにゆれている。 「まさか、冗談だろう?」 猫が笑ったように思えた。お前が判断すればいいだろうといわれたような気がして、鳴海は自分のいった言葉を後悔した。冗談はやめてくれと思ってろくな事になった試しはない。観念して、鳴海は猫をあとをついていくことにした。暗がりの路地に一歩足を踏み出せば、あとは黒猫はもう鳴海を振り返らなかった。ゆっくりとした足取りで、鳴海を先導する。 えぇっといつだかこんな事があった気がすると鳴海はぼんやりと思う。酒の効果も手伝って記憶はあいまいでだからこそ、その日々の感情を思い出してしまいそうでいやになった。忘れることにしたのだ。酒と煙草の力を借りて、次は日常から消えるように。 猫は何回も路地を曲がる。五回目まで数えて、同じようなところにでた気がして数える気がなくなった。あの黒猫が最短ではない距離でどこかへ自分を連れて行こうとしているのなら、その理由はこれから行く場所を知られたくないからであり、そうであるなら抵抗がする気がなかった。それに悪魔を使うようなうさんくさい連中が本気を出したら帰る事ができるかどうかすら鳴海にはあいまいだ。鳴海はだらりと垂れた黒猫の尻尾が地面すれすれでゆれているのを目で追った。鳴海を先導していた猫は路地を抜けて十字路の真ん中で立ち止まった。そして奇妙に高く長く鳴いた。十字路の中央で鳴海を待つように立ち尽くしている猫に急ぎもせずに近寄る。路地を抜け出る瞬間に水に飛び込んだような抵抗が体を包み込む。月光が一瞬赤く錆びたようになり、そして元に戻った。かすかに梨と鉄錆びのにおいがした気がした。 鳴海はいつの間にか雑踏が遠くなっているのに初めて気がついた。遠いどころかすでに音がしない。自分の前に立つ猫の柔らかな足音が聞こえるほどあたりは静寂を保っていた。丑三つ時の四辻で黒猫と何をしているのだろうと鳴海は自嘲しそうになった。本当は期待しているの、だろう。十字路の真ん中に立つと白い建物が目に付いた。二階建てで正面にむかって、一階に三つ、二階にも同じ数白い木の格子がはまった大きな窓が目に入った。玄関の扉までのわずかな階段すら真っ白で、その階段を上る黒猫は目に痛かった。扉は同じく白く、丸く青い西洋硝子がはめ込まれていた。猫は鳴海を振り返らずに、扉の下に取り付けてある猫用の出入り口から家の中に入ってしまった。 「…毒も食らわば皿までって?」 この場合ちょっと違うかなぁ?と努めて明るく言葉を吐き出しながら、すぐに割れてしまいそうな硝子でできたノブを回すと扉はあっさりと開いた。家の中はすべてが白で統一されていた。本当にどこまでも白い。目が痛くなるほどの、気が狂いそうなほどの、一点の曇りもない白だ。壁も椅子も、廊下も、天井も床も、箪笥も、台所の蛇口も扉の取っ手も、階段の手すりも。唯一の色といったら鳴海自身と扉にはめ込まれた色硝子くらいのものだった。鳴海はここはどこかに似ていると思案して、思い当たる。そうだここは、病院の霊安室に続く廊下に似ていた。恐ろしいまでの静寂と、煙の昇る音すら聞こえそうな悲しみに満ちている。 部屋はいくつかあるようだったが鳴海を誘うように扉が開いているのは階段に続く部屋のみだった。黒猫の姿はもう見えない。鳴海は、抵抗もしても無駄だ、ともう一度思い階段を上った。自分の靴底の跡が階段に点々と刻み込まれていく。二階に着くとそこもやはり白一色で埋め尽くされていた。いくつか部屋があるようだったが、薄く扉が開いていたのは一部屋だけだった。隙間からは柔らかな、やはり白いシーツに包まれたベッドと明るすぎる月が床にさしているのが見えた。色がなさ過ぎて目がちかちかとかすみそうだと思いながら、鳴海は部屋に足を踏み入れた。 あぁ、と ため息が漏れた。分かっていたし、期待をしていたのだ。つまりライドウが、きっとこの部屋にいるのだろうと思っていた。ライドウとは鳴海探偵社に今いる、あのライドウではなくて、十四代目の高等師範学校に通っていたライドウだ。きれいな顔をした少年だ。その少年はベッドに眠るように横たわっている。呼吸は穏やかで、きっと体温は暖かいのだろうと思った。頬に血色がさしている。 名前は呼べなかった。ライドウはまるで眠るように横たわっている。だが、寝ているのではない。あの薄い色のない瞳がぼんやりとどこかを見ていた。赤く錆びたあの月光のような、どことも知れない場所を。ライドウと言葉は声にならない。規則的な瞬きは少年の鉱物のような無機質さを一層際立たせている。 「何を躊躇している鳴海。」 顔をなでる寸前でとまった自分の手と、思考の働かない頭でぼんやりとライドウを見つめていると突然声がした。ばさりと音がする。それは、あの烏だ。緑の目をもった、お目付け役。 「・・・やっぱりゴウトかぁ…」 「…はっ、ほかに誰がいるものか。」 お前も呼びかけただろうとゴウトは嘴を動かした。鳴海は子供のように、うん、とうなずく。 「お前だって最後鳥だったし、まさか本当にゴウトとは…」 「なんだ、危険を犯してまで連れて来た甲斐のない返事だ。」 危険を犯してって何さ?と聞くと、ゴウトは羽を震わせてヤタガラスの目をかいくぐる事と、お前が異界を通りすぎるのに耐えられるのかという話だ。 「それ、主に危険なの俺じゃん」 「ヤタガラスの方は少し自信がないな」 ちょっとやめてよーと鳴海は疲れたようにつぶやいた。そうして鳴海は思う。今ここでゴウトとこんなに滑らかに話がすすむのは、触れたくないことがあるからだ。鳴海には、ある。そしておそらくゴウトにも。ゴウトは鳴海を馬鹿にしたようにしばらく笑った後、つぶやいた。 「十四代目は死んではいないさ。だが生きてもいない。」 鳴海はゴウトの言葉にぎくりとしてベッドに横たわる少年を見た。少年はもう瞬きをしていない。目を閉じて、眠っているのだろうか。 「こうして時に目を覚まし、そして眠るだけだ。食事を口先に持っていけば食する。だがそれだけだ。」 それはぞっとする風景だった。まるで人形のままごと遊び。鳴海はライドウが死んだ理由を知らなかった。知りたかった。けれど知ることができなかった。ただずるいと思った。そして忘れようと努めた。十五代目の窓際の囁きもすべてを。 「ヤタガラスは、血がほしかったのさ。十四代目ライドウの。その天賦の才、この容姿、ライドウを生み出すためなら腹を差し出す女などいくらでもいるのだ。葛葉にはな。」 「ゆがんでるねぇ」 「必要悪だ、とヤタガラスは思っているだろうな。」 そのためだけに、体だけ生かされているのだ。心はもうないのか、それは鳴海には分からなかった。窓際で笑っていたあれは、魂か?あはは、そんな夢物語は都合がよすぎる。 「俺はな、鳴海。十四代目のライドウが悪魔になってしまってもいいと思っていた。」 あの少女のようにな、とゴウトは笑っているような気がした。 「お前が悪魔召喚師ならばよかった…とは都合がよすぎるな。結局はそうはならなかったのだから」 そうだ、もう窓際の気配はどこかへ消えた。夢の中で舌のない、喋らない彼は夏の終わりが近づくにつれどんどんと薄くなっていく。壊れていく。夢の中で引きとめはしなかった。自分はいつもからだが動かなかったからだ。笑っているライドウの、顔が。 「…なぜ、俺をここに?」 「さぁ、なぜだろうな。わからぬお前でもあるまい」 ゴウトはそういって空気に体を溶かし、よくわからないもやになった。ゴウトは猫ではないのですよ、鳴海さん。人間なのです。とライドウは昔言った。鳴海はライドウの頬の直前で止まっていた手を伸ばした。 「殺せと?」 「…子を成した女などもういくらもいる。」 ゴウトの言葉に鳴海は笑った。 「ヤタガラスは十四代目の廃棄でも命じたのか?」 わだかまるもやは押し黙る。ライドウの横たわるベッドの枕元に、ぼんやりと人型の形で。 「ひどい話だよ。なんだ、ゴウトは俺にライドウを殺させるためにわざわざ呼んだの?」 「あぁ、そうだ。」 「ひどいなぁ。」 お互い様だ、とゴウトはいった。それはいつのことなのか鳴海には分からなかった。ゴウトと最後に出会ったのは二年近く昔だ。そう、もう昔だ。 「変わらないね。ライドウ。」 「成長をしない。」 「俺もう34だよ?ライドウの二倍だ。」 あはは、と鳴海は笑った。そうして頬に置いた手を首へ滑らせる。少年は動かない。そんな事はありえないのだ。いつも彼は首にすべる手のひらに眉をひそめるか、目を細めるかしていた。あぁ、本当に。 「あーあ…あったかいなぁ…ひどいなぁ。」 あの日ライドウの体はあんなにも冷たかったのに、なんと暖かい頬。 翌日、十五代目には鉄錆びのにおいがすると訝しげに見られた。異界にまぎれこんだよ、と返したらよく帰ってこれましたねといわれた。 案内人がいた。白い家でね、ひどい話を聞いたのさ。 そういうと十五代目はさらに不思議そうな顔をしてそうですか、と返した。手に残る感触はもはや幻と変わりない。 |