*コネタ1の「悪魔と人の曖昧な境目」の続きです。ライドウは死んでいて15代目ライドウとかいます。 夏の話 十五代目葛葉ライドウが鳴海探偵社にやってきた。十四代目ライドウは影も形もなくなって、そう十五代目はあの少年と似ても似つかない。それに安堵する自分が酷く疎ましかった。 夏のある日を思い出すのだ。窓からはとても強い光が差し込んできて、探偵社は蒸して暑い。本棚の隣にある蓄音機からピアノの音が垂れ流されていた。硬質なその音は薄青さすら伴ってころころころころと部屋を満たしていく。 「暑い」 「暑いですねぇ」 十四代目のライドウがそう俺に答える。白いシーツに丸まってくすくすと笑う彼は歳相応に幼く見えた。床には管がばらばらと散らばって窓から差し込む強い光を反射し、眼球をときおり照らす。ちらちらと見える光はこの行為を責める悪魔のささやかな抵抗にも思え、俺はわずかな優越感とともにへらりと笑った。 「夏ですね」 「夏だねぇ」 眠るときも明るく、目が覚めても明るいというその妙な安堵。真昼から煽る酒の美味さと、真昼の情事の満足感はとても似ている。世界から隔絶されてゆらゆらとシーツの間を浮遊しているような幸福感。気温に体の末端が溶けて行きそうな気がして、それはとてつもなく幸せなことのように思えた。 ピアノの音はシーツの間を縫って、空気をひんやりとしたものにする。眠るという行為も、ピアノの音も感触がよく似ていた。夏の暑さだけがそれに抵抗するように、溶けてぐずぐずになってしまいそうな倦怠を送り込んでいた。 世界から隔絶されることがこんなにも幸せなのならば 「今日は暑いですね」 15代目がそういう。依頼は相変わらず来ない。それは良い事なのか悪いことなのか判然としない。俺はあぁ、と呟いて特にすることもない机の上をがさがさと探っている。一番最近の事件は…、銀座町で頻発する謎の交通事故だった。(十五代目によるとポルターガイストがどうのこうのとか、よく覚えていない) 「なぁ、十五代目の」 「なんでしょうか?」 俺が呼びかけると十五代目はこちらを向いた。彼の目は真っ黒で膿んでいるように常に見えた。夏だからか、と思って冷たい珈琲が飲みたいよ、という。十五代目はそうですか、と答えて台所へと向かった。ふっと欄干から誰かが笑っている気配がした。十五代目はいつも悪魔を出しっぱなしにする。俺は舌打ちをして、目をつぶる。 欄干の気配は笑いながら窓際に移動した。十五代目が来てからしばらくして昼夜問わず気配を感じるようになった。応接間の中だけで、それはいつも寝入りばなに感じることができる。十五代目の悪魔なのだろう、聞いたことはないが、おそらくそうだ。うとうととしながら酷い夢を見るようになった。 その夢はこうだ。おれはソファで寝ている。そして十四代目のライドウを見る。あの少年はソファで寝ている俺の髪を嬉しそうに梳いている。幸せそうに穏やかに微笑んでいるので、俺は少年の名を呼ぶ。ライドウ、と呼ぶ。すると少年は口を開く。あかあかとした口腔には不恰好な舌が横たわっている。薄く綺麗なそれは寸断されグロテスクな断面をさらしている。血の抜け切った、あぁ、鶏肉によく似ているそれは舌の断面だ。少年はしゃべらない。そうきっと喋れないのだ。あの日の光景が脳裏に瞬いては消える。 いや、違う。俺が消えてなくなれば あの日俺は一体何をあんなにも謝っていたのだろう。抱きしめたからだがあまりにも冷たくて。 「所長」 いきなり声をかけられて俺は驚く。いつのまにか目の前には十五代目がいて、彼は珈琲を差し出していた。ちゃんとグラスにはいったその液体は、机に置かれ氷がからん、となった。 「ありがとう」 いえ、という十五代目の指先はあっさりとグラスから離れた。窓際の気配は首筋をぞわぞわと伝う。視線の気配だ。一体何をそんなに見ているのだろう。 「悪魔さ」 そう呟くと、十五代目はこちらを向く。 「なんで出しっぱなしなの、いつも?」 俺がその時なんと思ったのかといえば、なんてずるいのだろう、と思ったのだ。俺を置いていくことをずるいと思ったのではなくて、このまま処置する暇もなく死んでいくだろう少年が一体何から逃げたのかを俺に知らせぬままに死んでいくことがずるいと思った。だって今日は、昼間までは、あんなに暑い(生ぬるい)部屋の中でだらだらと何の意味もない話をしていたのに。触れ合った肌も、その熱さも冷たさもだるさもなにもかも時が止まるように幸せで、一体なにがどうしてこうなったのか俺には全然わからなかった。狂ったように笑う少年の最後の言葉も聞き取れないまま。月の光はカラスの影を落とす。カラスの声は不吉に心を引き裂いて、そのまま消えた。腕の中の少年の笑い声とともに。 「この探偵社には結界がはってあるのを所長はご存知かと思いますが」 十五代目の言葉に俺は頷く。この探偵社には簡単だが結界がはってあるので筑土町にいるような悪魔だったら侵入を防ぐことができる。(十五代目が探偵社の中では刀やら銃やらを外しているのはそのためだ) 「その結果悪魔はこの建物には入ってくることができません。」 仲魔は別ですが、という十五代目の意図が読めないまま俺はふぅんと相槌を打つ。珈琲は先ほどから口をつけられないままに事務机の上で汗をかいている。 「所長の後ろにいるそれは」 そう、それはいつも同じ感触の気配だ。 「悪魔でも霊でもない異質なものです。ただ害はないので放っておいてあるだけです。」 最初に見たのはここにきてしばらくたってからでしょうか。それはいつも欄干か窓際で笑いながら、所長あなたを見ています。霊ではないので、悪魔なのだろうかと話を聞こうとしても喋らず笑うばかりです。所長がソファでうたた寝をしていると面白いのか髪を梳いてます。その時所長はとても幸せそうで泣きそうな顔をしています。それは酷く綺麗なまるで人形のような容姿をした少年です。目が薄灰色で、あぁ、あまりにも整っているので逆のどのように表現していいのかわかりませんね。学生服を着ていて、あれは高等師範学校のものでしょうか。 ちょっと待て。ちょっと待て。俺をからかうのはやめろ。大概にしろ。そんな酷いことは夢だけでたくさんだ。それでも気配は依然としてそこにあり、窓際で笑っているような気がする。 「それが喋らないのは舌がないからだよ」 「でしょうね。」 涙が止まらない気がした。でもそれは気だけで俺はなんということもなく喋っていた。悪魔が見えないことがどれだけ恐ろしいか俺は知っている。気配だけしか感じられないことがどれほどもどかしいかを。でも見えないことが幸福だとさえ思った。できれば気配すら感じたくなかった。 あの鳥にいて欲しかった。そして何がしか言って欲しかった。責める言葉でも、慰める言葉でも、消えろいなくなれと吐き捨てる言葉でも、なんでもいい。なんでもよかった。 「所長」 十五代目が囁く。悲しげな顔をしています、きえろなどと願わないでください 「所詮時がたてば氷のようにとけてなくなるものですから」 十五代目は珈琲をさしだしながら、ぬるくなる前にお飲みください、という。俺は目を瞑る。そして想像する。窓際で笑ったままのライドウが指先から溶けていく様を想像する。夏の倦怠に押されなすすべもなく壊れていく様を想像する。でもその想像は、あの日となんら変わらない過程で事実だった。 世界から隔絶されることがこれほどまでに幸せならば、世界と溶け合うこともまた幸せなのだろうと、シーツの合間で喋りながら思った。歳相応に笑うライドウの頭を引き寄せてしっとりと湿っている髪をゆっくりと撫でる。ライドウは嬉しそうに俺の髪を梳いていた。 「こんなに暑いと」 ライドウは言う。 「溶けてしまいそうですね」 指先から腐敗していきそうだった。空気に溶けてなくなってしまいそうな感触は幸福の証だった。俺は笑った。それは本当に心の底からゆっくりとこみ上げる至極暖かいものだった。 多分その笑いは、今窓際で笑うライドウと寸分違わないものだろうと思うとそれがなによりも悲しい。 |