明日





 珍しく大怪我をしたライドウが、珍しくヴィクトルのところによらないで、珍しく探偵社に帰ってきて、珍しく俺の目の前で傷を治していた。背中にざっくりと刻まれている傷がみるみる治っていくのをみるにつれて、何故だがどんどん不機嫌になってしまった。何故だか、というか、この少年にはあんなに大きな傷すらも跡形も残らないのかと虚しくなってしまった。魔法なんて正に人外だ。一体ライドウは何を糧にして傷を治していくのだろう。MPとか生体マグネタイトなんて言われても俺にはさっぱりだ。だからライドウが消費していくの彼自身の生命力とかそういうものなんじゃないかとたまに思う。それはよくないな、だってライドウには生きている感触が時折全く感じられない。あんな傷すらも跡形も無く治ってしまうのだから、ライドウは俺との生活も忘れてしまうのかな?なくしてしまうのかな?それはやだな、だから、覚えていてよ。
 不機嫌や虚しさはとめどなく膨張し、そして俺は珍しく腰をあげた。
 ライドウは俺が腰を上げたことに特に注意を払わなかった。素晴らしいね!こういう些細なライドウの変化は俺を喜ばせる。探偵社にライドウが来たときには酷いものだった。俺とライドウが机を並べて書類整理やらなにやらをしている。そして俺が何の気なしに煙草を持ち上げるとライドウの視線が鋭く刺さるんだ。気になるのかなと思ってやりすごしたがあまりにもそれが何回も続く。彼は俺を警戒しているのだと気付くには長くかからなかった。そんな彼が傷を治しているというもっとも無防備な瞬間に俺が動いた事に注意を払わないなんて、随分と進歩したと思う。俺はそれが素直に嬉しい。そして多分これから行う事も後悔はしないだろう。
 ライドウの綺麗な背中に斜めに切り込まれた傷はもうあと少しで完全に治る。まるでファスナーをじりじりとあげていくように傷がするすると治っていく。もうつめ先くらいしかないその真っ赤な傷口に俺は爪を立てる。ライドウは息をのんでそして振り向こうとするので、俺は左手で肩を押さえてそのまま倒れこんだ。傷口にはまっていた人差し指が湿った音を立ててもぐりこむ。
 「…な、にをっ」
 ライドウが呻くのを俺は痛々しい気持ちで聞いている。あぁ、この傷を治さないでよライドウと。お門違いか。
 「ねぇ、ライドウ」
 ぐちゃり、と引き抜くと血は意外にあっさりと背中をだらだらと伝った。もうちょっと粘度が高いもののような気がするが、ライドウだからね、と思ってあまり気にしないことにした。だってこの少年はあまりにも流される血に無頓着だ。
 「鳴海…さん?」
 ライドウの疑問の声に、警戒や危機の響きが全く無くて俺は喜ぶ。
 「ねぇ、ライドウ」
 自分の声があんまりにも暗くて笑い出しそうだった。情事のときに相手の名前を呼ぶ、そんな調子によく似ていた。ライドウからきっと俺の顔は見えないだろう。俺もライドウの顔が見えない。真っ白い背中ばかりが視界をふさいでいる。
 「ライドウはさ、どうして折鶴しか折れなかったの?」
 唐突なその問いにライドウは首をかしげる。何を、といいかけるその口をふさぐために不思議な形で開いている傷口に人差し指を再度潜らせてみる。息をのんでしまうその様が扇情的でくらくらする。
 「どうして?」
 大量の千代紙。いくつもの折鶴。カブト、やっこさん、はばたきづる、ふうせん、かざぐるま。懐かしい手遊びと勝ち誇るゴウトの台詞。悔しかったのかもしれない。だから俺はライドウの、ゴウトが踏み込まないそこへ踏み込んでやるさ。だっていいだろう?だって俺はデビルサマナーではない。悪魔も見えない。ライドウが何を糧に傷を治しているかしらない。だから、すこしくらい。すこしくらい。
 どうして、ともう一度優しく呟くとライドウはまるで導かれるように答える。
 「…母が、病で床に伏していました。父が、千羽鶴の折り方を」
 ふぅん、とつまらなそうに答えた。ライドウの家族の話を聞いたのは初めてだ。ライドウが人間から生まれたというその事実がすでに意外すぎる。
 「それだけしか教えてくれなかったの?」
 「…父とは折り合いが悪くて」
 本当にライドウが抵抗もなく答えるので鳴海は少し驚く。違う、こんな事が聞きたいわけではない。俺はライドウに、そう傷を残したいのだ。体じゃだめだ、だってすぐに消えてしまう、消してしまう。ライドウのたましいとかこころとか精神とかそういううさんくさいものに深い深い傷をつけて、そして俺をわすれないようにしてしまいたい。そこまでは魔法でだって治せないだろう?
 俺は苛々しながら体を起こしてライドウの体を肩をつかんで仰向けにさせる。
 「…ライドウ、は強いんだね」
 合った目線の思いのほかの強さに鳴海は少しだけ面喰らう。ただまっすぐにライドウは鳴海を見つめていた。
 「どうしてライドウは、ライドウになったんだ?」
 鳴海は血まみれの人差し指をライドウの頬に滑らせながら聞く。血などすぐに乾いてぱらぱらと落ちていくだろう。
 「答えなければなりませんか」
 「もちろん」
 ライドウのその問いに鳴海は笑顔で答えた。気持ち悪いほど笑顔が朗らかなのを鳴海は自覚していた。ライドウは無表情のまま、声を揺らして答える。
 「…選んだからです。そうなることを。」
 もしかしたらあと少しなのかもしれない、と鳴海は思う。こんな酷いことをどうしてしているのだろうと考えるのは全てが終わった後にしよう。
 「それは結果論だよ。違うよ、ライドウ。何故お前は帝都を守ろうと?」
 任務があればお前は人だって殺すだろう?それが子供であれ、老人であれ、男であれ、女であれ、悪人であれ、善人であれ。それが帝都の人間であっても。
 これは机上の空論だ。詭弁だ。わかっているけれど鳴海はそれでもライドウに問う。
 「それが名を継ぐ事と同義だったからです」
 淡々とそうライドウが囁く。自分の体の下で、痛みに引きつらせた声で。その痛みが傷の痛みなのかそうでないのか鳴海には判断しかねた。
 「ではお前は帝都を守るためではなく、名を継ぐ為に、その継いだ名の為にこのような日々を過ごしているというのかい?」
 「…貴方は一体何がしたいのです、鳴海さん」
 ライドウは目を細めて、言い捨てる。鳴海は思う。そんな事を言ったって無駄さ。
 「逃げるなよ、ライドウ。どうしてお前はライドウになったんだ?」
 自分の囁く声は低いままで、こんな声聞いたことがないと思う。ライドウもそう思っているだろうか。細めた目の色合いが揺れているのがとても面白くて、俺は笑う。酷く嗜虐的な気分になって機関銃のごとく喋る。言葉が次から次へとあふれ出て面白い。
 「なぁ、どうしてだ?どうしてお前はライドウなんかやっているんだ?その口で帝都を守るといいながら、その腕で人を殺しているんだろう?」
 あぁ、悪魔かなぁ、と微笑む自分はもう止まることができなかった。終着点も見えない地点に向かってただ走っている。
 「ヤタガラスに頼まれたから?そういう風にならざるをえなかったから?責任を誰かに押し付けるのは楽でいいよねぇ。今まで殺してきたのはお前が望んだじゃないっていえば、それで仕舞さ。お前には何の責任もない。」
 揺れる瞳から目が離せなかった。ライドウの唇が動く。なんというのだろうと、おもわず唇を読んでしまう。唇が動く。
 だまれ
 がちゃりと音がして突きつけられているのは銃口だった。さすが現役だと思いながらも肩をすくめる。
 「そうやって俺を殺しても、それはヤタガラスの為かい?」
 言葉は刃だ。時には銃口よりも力がある。
 「…黙れ!」
 ライドウの無表情は一体何によるものなのだろう。叫ぶ声とその目だけがただ感情を放っている。
 「そうやって俺を殺しちまいなよ。そしたらこの口だって止まって、そしてその事実をライドウの名にかぶせればいいさ。あぁ、お前に罪はない。ないとも。そうだろう?」
 うるさい、うるさい、と叫ぶ声が心地よい。あぁそうさ、そうやったらきっとお前は俺の事も忘れられ無いだろうさ。ねぇライドウ覚えていてよ。背中の傷のように消したりしないでよ。俺は満足なんだ、たとえお前が明日もうここにいなくても。