悪夢 月の光が格子を抜けて碁盤の目のように床に差していた。本堂の中には何もなく、歩く度に古い木の床がぎしぎしときしんだ。 世界は微睡みで出来ている といったのは誰だったろうかと思うが、判然としない。月は白く淡い光を投げ込んでいる。季節は冬だ。吐く息は白い。雷堂まで本堂で寝る理由は無いが、ヤタガラスの命だ。付き添い、監視、まぁなんとでもいえるが要は違う世界の十四代目を逃がさないようにとの事だ。 信用の無いことだとは思う、しかしそれは正しい。この隣に立ってぼんやりしている十四代目が十四代目の責務を受け継いだ以上そのような事は起こらないだろうが(自分に当てはめて考えてみれば分かる)それでも彼は違うのだ。違う世界の違う自分なのだからなんと考えるかなど分かるものでもない。 しかし、と雷堂は思う。 どうだろうか、この横に立つ少年は。 自分より幾分か背が低い。華奢だ。デビルサマナーという役職上(しかも彼は学生でなおかつ探偵助手なのだ)外に出る機会は多いはずであるのに、焼けた事など無いかのように白い。そして多分並んだときに一番目につくのであろう差異は、顔の傷だ。 同じ人間、だが違う。 困ったな、というのが雷堂の正直な思いだった。ふと自分の幼い頃を回想して(しかしそれはあまりいい思い出ではない)、記憶の中のまだ小さい自分に不意に振り返られて戸惑う感覚とよく似ている。 後ろ姿は幼い自分そのもので、意識は離れながらも子供と同じものを見ている。だがその子供が一度振り返ればその視線のあまりの拒絶に驚き、戸惑ってしまう。それと本当に良く似ている。 苛立ちではない。ただどうしていいか、分からないのだ。記憶や回想はいい。幼い自分が振り返ればそこで回想は終わる。しかしこの状況に眩暈を感じても違う世界の自分は依然としてこちらにいて、それは手を振る事であっという間に消えたりなどしない。 「お前のような」 雷堂の声に今までぼんやりと立っていたばかりだったライドウは振り返る。ライドウは特に動揺していないように見えた。所詮他人の気持ちなど分かるわけはなく、だから雷堂は彼が動揺しているかしていないか見極めたかったのかもしれない。 「お前のような人間に十四代目が務まるとはよほどそちらの世界は平和らしいな」 ライドウの足先でゴウトがうなった。なんだと、と頭に響く声に眉を顰める。ライドウはその言葉をぼんやりと受け取って笑う。なんだむこうの十四代目は頭のほうもあれなのか(あれってなんだ?)と思い、ため息をついたのと同時に体が勝手に動いた。 がきん、と刀が競り合う音がして、反射的に自分は刀を抜いたのだとそこでようやく認識した。刀の合わさる向こう側で先ほどと同じようにライドウが笑っていた。向こうのゴウトが慌てている。今度は雷堂の足もとにいる業斗が何をする!と叫ぶ番だった。 ライドウは自分より華奢だ、という印象はやはり薄れなかった。篭る力も(もし仮に彼が本気を出していればの話だが)自分が本気を出せば押し返せるだろうと思う。それが出来ないのはおそらく彼の異様な雰囲気の所為だ。 「では」 視線の先でライドウが息をふっと吸い込んだ。刀が弾かれる、と思い反射的に横に流そうと刃を滑らせる。重心の移動をするその瞬間を狙い足を払われ均衡を崩した。流れる視界で確認したのは、自分がまだ刀を握り締めている事と十四代目が刀を床に捨てて、自分に向かって突進してきた事だった。 受身は取れたが、体勢を立て直すまでにいかず、自分の体に覆いかぶさる十四代目の首にかろうじて刀の刃を突きつける。どちらも息は乱れていなかった。 「こちらの世界の悪魔はさぞかしお強いのでしょう。」 お強い貴方の顔にすらこのような傷があるのですから、とライドウは指で顔の傷をなぞる。傷を触る指は冬の気温でとても冷たい。傷跡は触覚がおぼろげで触られてもかすかなむず痒さを感じるだけだった。 「この傷は、悪魔につけられたものでない」 そういうと十四代目は傷をなぞっていた指を止めた。 「なら、どのような、とここで聞くのは野暮でしょうか?」 目を細め、ゆっくりと笑う様は狐に似ていると雷堂は思った。ここはヤタガラスの名も無き神社。狐の石像の守る土地。 「あまり話したい事でもないな」 幼い子供がこちらを見ている。血だらけの顔で、強い拒絶の瞳で。 回想の中の子供と目があうのに酷く戸惑う。同じだが、違う顔が目の前にあるのは酷く気持ちが悪い。 今、自分は、何を見ている? 刀の鍔がかちゃりと鳴る。ライドウはゆっくりと雷堂に顔を近づけた。首に当てていた刃が彼の首を切る。じわりと血がにじむがそれは雫にはならなかった。 「そうですか」 随分とあっさりとライドウは話題を突き放した。目の前の顔は微笑のままに動かず、それはむしろ無表情よりも質が悪かった。なんだかどうでもよくなり、刀から力を抜いた。彼は自分を殺しはしない。切り裂く気のない刃をいつまでも首に当てるのが馬鹿らしくなって刀から力を抜いて床に置いた。 刃に血の跡など無かった。 「一体何が目的だ?」 「これといってありはしません。」 そうですね、口付けでもしますか、と酷く馬鹿にしたように笑う十四代目が癪に障り、外套をつかんで勢いよく引き寄せる。ライドウは一瞬驚きで目を丸くしたが、抵抗はしなかった。馬鹿にしたように笑うその顔が崩れただけでも雷堂は心地よかった。 あわせた唇は指先と違って生暖かい。この男にも柔らかい場所などあるのかと半ば感心をしながら唇を割るとそこには舌がある。(当然だ、何か頭の回路が上手く繋がらない)絡めても逃げることなどなく蠢く柔らかさや熱さがまるで別の生き物のようで、情欲や怒りとはまた別の意味で夢中に追いかけている。遊戯を解くような快感。 「はっ…」 時折抜ける息の甘さにくらくらとする。飲み込まれまいと抵抗する気持ちは眠気に抗う時と似ていた。口を離せば冷え冷えとした空気がすぐに喉を伝い肺に浸透する。生霊返し、悪の。いくつもの単語がくらくらと頭の中を駆け巡った。 「…その傷」 ライドウは呟く。 「自分で付けたのでしょう?」 子供の頃の自分が拒絶の瞳のまま、口の端に切れ込みを入れたようににぃ、と笑う。血だらけの顔で、その手には小刀。目前には母が。視線の先で十四代目が笑う、笑う。けたけたと、からからと、狂気のように笑う。月は真っ白く淡く、夢のように光を届ける。これは、そう。 なんという悪夢 |