めでたし、めでたし





 夜明けの薄青い光は、時間を止める効果を持っているように鳴海には感じられる。どこかで起きはじめた雀のさえずりや、もうすぐ地平線から昇る朝日に応えるように鳴きはじめる蝉の声は、けれど決して人々が目覚めたと感じさせることは無い。朝と夜の間の一瞬は本当にわずかに時間を止める。時間が経たないという感触に安らぎを見出すのは酷く下らない事に思えた。だって現実、時計の秒針はかちり、かちりと動き続けている。
 けれど安らぎは鳴海を非常に落ち着かせていた。だから明け方のその時間にライドウが息も絶え絶えに事務所の扉を開けた時も、驚きはしたものの、取り乱すということはなかった。普段であれば彼はこのような時間に事務所の扉は開けない。何も言わずに自室にもどって、依頼が入れば俺とゴウトが依頼人宅に向かい、そうでなければそれで顔を合わせる事がない。
 ライドウはどうやら本当に間違えたようで、しばらく呆然と鳴海の顔を見ていた。鳴海は、外套姿のライドウを近くで見るのがとても久しぶりだったので凝視してしまっていた。外套は便利だ、と鳴海もライドウも思う。ライドウは鳴海が気にするであろう自分の体の不調を物理的に見せなくていい事に、鳴海はそれを見なくてもいい事に安心をする。互いに安心したことが分かっているので、それは安心しながらも気まずい。
 太陽が昇る直前の緑柱石のような光が探偵事務所の窓から差していた。鳴海はふと大層優しい気持ちになって、ライドウに声をかける。
 「遅かったね」
 ライドウは酷く憔悴した様子で、いえ、と呟いた。
 「そんなに辛かったら、ソファでお休み。」
 ケットだったら持ってきてあげるから、と言うとライドウは困った顔をしていた。例えば夏の初め、あの手をとっても取らなくてもおそらくこの日は来ただろうと思う。それでもやっぱり取る事に意味はあったのかもしれない。いや、鳴海は思う、今は時が止まっているのだと。人々は起きもしない。世界だけが目覚めて、人々は取り残されている。自分も、おそらくライドウも。
 ゴウトが足もとで鳴く。鳴海はゴウトがライドウの病に関して何と思っているかを知らない。めっきり喋らなくなってしまったし、ゴウトもライドウに対してわかるようにしか喋らない。依頼の時以外で話をすることはもう稀だ。ライドウはゴウトの言葉を聞いて鳴海に、ではお願いします、と呟いた。

 思えば探偵事務所の応接間に二人と一匹(一匹でいいのだろうか?)が揃うのは非常に久しぶりだった。憔悴というよりも衰弱に近い様子のライドウはソファに寝転んで浅い息を吐いている。鳴海は冷たい目でライドウを机越しに見ながら、出来ればこの瞬間がいつまでも続けばいいと冷静に思った。ゴウトはライドウの胸の上に丸まって、ゆっくりと尻尾を上下させていた。
 白いケットは客用の物でまだ新しかった。もともとあまり人が泊まる事など無いから一応はあるものの使う機会など皆無だった。ライドウはぼんやりと天井を眺めながら、このケットもう客用として使えないですね、と言う。鳴海はそんな事はどうでもいいよ、と冷たく答えた。
 ライドウはそんな鳴海を見て、笑って口を開く。
 「夜明けに、眠るのは好きです」
 まるで差す光は空そのもののようとかなんとか言ったって何にもならないのに。時間が止まっているのは錯覚なのに。ライドウがソファで笑って話すからと言って何も良くはなっていないのに。安心している自分に危機感を覚えて鳴海は答える。
 「俺も、好きだなぁ。」
 ライドウは笑う。天井に手を伸ばすとその手は青白く照らされる。人々は起きない。世界は動かない。時間は進まない。朝日は昇らない。あぁ、そうだったらどんなにか。
 「おやすみなさい、鳴海さん」
 「あぁ、おやすみ」
 そういって目を閉じるライドウを見届けると急に眠くなってしまった。このまま朝日が昇るのを見ているのは耐えられず、けれど寝てしまえば太陽の昇る真昼間に起きることになるだろうと考えると酷く滅入る。そう逡巡しているうちに眠気にまけて寝てしまう。あぁ、眠たい、と幸せそうに呟くライドウの声はもしかしたら幻聴なのかもしれないと思った。

 これは、多分夢なのだ。そう思う。
 そうだな、じゃあ、寝物語を話してやろう。薄紅色の麒麟を飼う少年、老女にかどわかされる美少女、人の思いを読み取れる青年の人生、いろいろあるさ。
 ゴウトは夢の中でライドウにそう優しく言う。いたく間延びした夜明けの時間、ソファに寝転んだライドウとその胸の上に乗るゴウトが目に飛び込む。自分が事務所のあの椅子に座ったまま寝ているのが見えた。
 そうだな、じゃあ、御伽噺を話してやろう。白薔薇の木の下の扉、大きな城に住む二匹の蛇、王様に千夜話をつづける女、無人島に一人残された男、なんだって話してやろう。
 ゴウトは優しげに囁く。ゴウトの声を忘れてしまっている、と鳴海は思った。こんなゴウトの声を聞いたことは無い。御伽噺なんて、とライドウは言う。
 「そうか。じゃあ、もっと現実的な話をしようか?」
 ライドウの胸の上でゴウトはそう囁く。
 「一体何を?」
 「…未来の話だ」
 未来の話、と聞いて鳴海は心もとない気持ちになる。今の状況や、これからの終着点だけはっきりしていて、話したい内容ではなかった。聞きたい内容でも。
 「お前が死んだ後の話だ。」
 それでもゴウトは臆せずにその顔を得意げに細めて言うのだ。
 なにで?とライドウは聞かなかった。ゴウトも何かを付け加えるようなことはしなかった。
 「お前が死んだら、俺はきっとここから出て行くな。そしてヤタガラスのところへ舞い戻り、十五代目を待つだろう」
 これはおそらく夢だから、ゴウトの声が聞こえるのだ。夢だからきっと起き上がって二人に話をやめる事を求めることはできるだろう。けれどする気は起きなかった。例えばライドウが自分と宗像の関係に入り込めないように、ライドウとゴウトの関係に入り込む余地はないのだ。それは悲しいことでも寂しい事でもない。入り込めないからこそできる事も、あった。
 「十五代目はお前と全く似ていない。おそらくデビルサマナーであるという以外の共通点はきっと無いだろう。」
 そして、とライドウは促す。話しながらも上下するゴウトの尻尾を目で追うライドウはきっといなくなってしまう。ぱたり、ぱたり。ぱたり、ぱたり。触れる、という行為は偉大だ、と鳴海は思う。ゴウトは猫だ。本当は猫でもない。触れられるのはだからだと言い訳をしている自分が酷く悲しかった。
 「全くお前に似ていない十五代目の仕草に、それでも俺は時々お前を思い出すだろう。管から悪魔をだす仕草や、探偵として働く姿に。」
 窓の外は明らんできている。陽よ、のぼるな。この部屋にどうか今だけでも明るい光など差さないで欲しい。
 「もう鳴海はいないだろう。全くあたらしい誰かが帝都のどこかで事務所をやっている。そこに十五代目は住み込んでいる。俺は今度は探偵事務所を住処にしたりしない。もっと別のところをヤタガラスに斡旋してもらおう。」
 できるかどうかわからんがな、と軽口を叩くゴウトにライドウは笑う。
 「そして俺は十五代目とともにまた帝都を守る。おそらく敵は些細なものから大きなものまであらゆるものがやってきて死に掛けたり、生き残ったり、生き残れずに死んだりするだろう」
 「ロケットのときのように?」
 「そうだ、あの時のように」
 ゴウトは酷く穏やかな顔で話していた。ライドウの病も何もかもゴウトは全て経験しているように見える。ゴウトの喋るそれはもちろん真実ではない。けれど酷く具体的で、未来の話をしているというのに何かをごまかしてくれていた。ぱたりぱたりと胸をうつゴウトの尻尾は、規則的で母が子供を寝かしつける仕草に似ていた。
 「そしてある日、十五代目は俺に言うんだ。十四代目はどんな人物だった?とな。俺は最初はごまかす。偉大な人物だったなど嘯いていもいい。そしてもしも、十五代目が三回、俺に十四代目はどんな人物だったと聞いたなら、俺は観念して答えるんだ。」
 ゴウトは滑らかに喋る。途切れることなどないかのように。子供に聞かせる寝物語が無限にあるのだと錯覚するような滑らかさで。
 「そんな事はもう忘れてしまったよ、と。」
 ゴウトの言葉はまるで水に絵の具を溶かしたときのようにすっと部屋の空気になじんだ。鳴海はそんな二人を見ながらいたく切なくなっていた。本当は二人ともわかっているのだ。十五代目が仮に居てゴウトがお目付け役になるとしても、きっと十五代目はライドウの事なんて聞かないだろう。ライドウが十三代目の事を聞かないように。ライドウは囁く。
 「そうか」
 ライドウは笑っている。ゆっくり窓の外に明るい光が忍び寄っている。ゴウトは窓を見て目を細める。
 十五代目に、きっと俺はめぐり合えないだろうと鳴海は思った。今のライドウにあまりにも近づきすぎてしまった。保護者じみた自分が疎ましいと舌打ちするような人間だったからヤタガラスはライドウを預けたのだと知っていたのに。
 「そうさ。そして俺は十五代目に偉大な人物などと嘯いたのは思いつかなかったから適当に言ったのだと冗談にする。お前のことを忘れて、全部すべて忘れて、それでも十五代目の仕草に誰かを思い出す気がするだろう。」
 そしてゴウトは言う。物語のおしまいのことば。
 「めでたし、めでたしだ。」
 ぱたり、ぱたりと胸をうつ尻尾を見ながらライドウはとろりとろりと眠っていく。
 その情景は酷く安らかだ。鳴海は眠っている。身じろぎすらせずにけれど確実に眠っている。もう陽が昇る。
 これは多分、夢なのだ。そう思う。
 
 目が覚めたら何もなかった。本当だ。陽は完全に真上で今は多分お昼だ。強い陽の光が目を刺す。椅子で寝た体はばきばきという。鳴海は朝のあの落ち着いた気持ちが続いている事に多少の驚きを禁じえなかった。ソファの上にはもう何もなく、ライドウの姿はどこにもなかった。
 それを想像していたといえば嘘になるだろう。だがそれでも明日必ずライドウの姿があるのだと信じることはもう無理だった。その日は普通に仕事を待った。夕方タエちゃんがきた。珈琲を出してあげたら喜んでいたのですこし嬉しくなった。笑って、また来てね、と言った。本当はタエちゃんが聞きたかったのはライドウの様子でそれを聞きに来たのをちょっと知っていたのだけれど言わせなかった。ゴウトは居ない。ライドウも居ない。話し声もしない。
 夜になってライドウの部屋の扉を開けた。案の定すっからかんだった。ベッドと枕もとの料理書だけがあの日と変わらなかった。管も銃も刀も外套も全て無く、箪笥や机の引き出しの中を検める気にはならなかった。きっと何もないだろう。鳴海は静かに窓を開けた。夏の夜の見渡せなさにくらくらとして目を閉じ水の音を聞いた。もう咳の音はしない。
 駅で、志乃田までと駅員に言うと80円の切符を渡してくれたので80円を払って電車に乗った。最終電車だった。名も無き神社に行くまでに少し迷ったので、神社についたのはもう明け方近かった。昨日の事を思い出した。夜明けに眠るのは好きです、と囁くライドウと胸の上に乗っていたゴウトの優しい翠の瞳。
 神社は相変わらず静けさを保っていた。狐の石像が一対、社の前においてある。鐘をがらがらと鳴らすとどこからともなくヤタガラスの遣いが現れた。(いつも思うのだが、彼らは一体いつの間に現れるのだろう)
 「どうかしましたか、鳴海?」
 「ライドウは?」
 自分の声が酷く静かなのが鳴海には可笑しかった。ヤタガラスの目は頭巾で隠れてしまってよくは見えない。ただ通った鼻筋とその下の薄く綺麗な唇は平素と変わらないように見えた。
 「十四代目は此方で回収いたしました。」
 「どこにいったの?」
 さらさらと葉の擦れ合う音が耳に優しくて、あの明け方の薄光が葉の合間から現れようとしていた。
 「貴方の与り知らぬ事です。」
 「どこに行ったの?」
 同じ質問をもう一度繰り返すとヤタガラスの遣いはため息をついた。雀がさえずり始めて、起きだした蝉の声が耳を打つ。
 「もういない物を探してどうするのです」
 鳴海、とヤタガラスが言う。昨日のあの落ち着きが続いてることに鳴海は驚いた。薄青い光が神社を照らす。ふと顔を上げるとヤタガラスの遣いはもう居ない。何故だかかっとなって鐘を無闇にならすがもうヤタガラスは現れなかった。
 がらん、がらん、がらがら、がらん、がらん、がらがらん
 何度も、何度も執拗に、規則的に鳴らしても何の変化も起きなかった。冷静さはもしかしたら忘我と同じものなのかもしれなかった。ふっと振り返ると山の間から真っ白い光が見えた。鳴海は何も思わなかった。悲しみなど覚えなかった。ただ、陽よ、昇るな、と思った。
 物語のおしまいの言葉、そうしてみんな末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
 あぁ、お願いだから昇らないで