春眠/鳴海とライドウ

 その言葉が何の意味を持たないのを知っているのに、それでも言ってしまうのは何故だろう。人が死ぬときにかける言葉を持たないことは幸福なことだろうか、よくわからない。
 多分鳴海さんはもうすぐ死んでしまう。もうすぐというか多分確実に死んでしまう。(多分確実にという言葉のかみ合わなさに笑ってしまいそうだった。)
 「あぁ、今日は暖かいねぇ」
 「鳴海さんそれ今日の朝も言ってましたよ。」
 「今、改めて深く感じたんだよ」
 だくだくと流れる血に貧血を起こす寸前だ。悪魔の血も自分の血も、それらの毒々しい赤に免疫があるはずなのに顔から血の気が引いていくのを押さえることは出来ない。
 「桜が綺麗だ」
 「桜の下だからですよ」
 「いいねぇ、詩的だ」
 「…鳴海さん」
 真に死にいくものにかける言葉などあるはずもない。それが無いことは幸福だろうか。桜の花びらは次から次へと強風に煽られて傷口にはりついていく。ぺたりぺたりと。
 「あぁ、眠いなぁ」
 傷は、桜のはなびらなんかではふさがらない。分かっている。たとえ今ここが設備が完璧にそろった病院だとして彼は助かるか。答えは否だ。泣いているのに、彼が気付かなければいい。喉が、声が震えなければいい。手が冷たくなければいい。血を失っていく体が彼の視覚を奪ってくれる事を望んでしまった。
 「寝ないで下さい、鳴海さん、寝ては駄目です。」
 でもさぁ、と鳴海は言う。ゆっくりとさがる瞼を引き上げる力も言葉も何も、ない。
 「でもさぁ、眠いんだ」
 「駄目です、鳴海さん、なるみさん。寝ないで下さい。」
 あはは、無理だよー、と彼があんまりにも普段どおりにいうので。それがあんまりにあの探偵事務所に居たときと変わらなかったので。
 「じゃあ・・・、…そうですね。一眠りしたら、一緒に甘いものでも食べに行きましょうか」
 「…うん、そうだねぇ…」
 できれば今泣いているのに、彼が気付かなければいい、と思った。










春眠/ライドウとゴウト

 自分にとって死ぬこととは幸いに他ならない。
 死んでも死んでも、死んだ以前の記憶が脳裏に蘇り今の体に移っている意識に繋がるというのは、一種の地獄と同じである。仏教では輪廻から抜け出すことが真の悟りという。輪廻は抜け出すべきものなのだ。業斗童子、その名はそのまま罪人の証だ。誰がいったか知らないが、この世はまさに苦界だ。

 ライドウの手が体を撫でていくのを今更止めろという気になれなかった。ここは酷く暖かくて、体に心地よい。肉体の死ではなく、迫っているのは精神の死と似たようなものだ。体の末端から意識がぷつり、ぷつりと引き剥がされて、そばから溶けていくような感覚に襲われる。海に浮かんだまま、体の末端から水になっていく感覚、と言い表すのが一番適切なような気がした。酷く心もとなく、同時に安心する。
 「眠い…」
 ゴウトのその言葉にライドウはゴウトの背を撫でる手を一瞬止めた。そしてしばらく逡巡した後にまたゆっくりと撫でだした。
 「今日はいい天気だから」
 「あぁ、暖かいな」
 ゆっくりと背を撫でる手の必要以上の優しさは、ゴウトにライドウの心情を的確に伝えた。十四代目葛葉ライドウは決して馬鹿ではないのだ。死期など容易にしれるだろう。
 「…思わず寝てしまいそうだ」
 酷く小さい声で、そうつぶやくとライドウは、じゃあ、寝るかい?とそう聞き返した。ゴウトはライドウの腕の中でぐんにゃりと体を伸ばす。ぷつり、とどこかがはがれ、ゆらりとどこかがとける。
 ねないで、と小さく呟かれた言葉にゴウトは苦笑した。今更どうなるものでもないのだ。ただ、その言葉で懇願しなかったのはライドウがゴウトの苦しみを、一部分でも理解しているからだ、と思うとゴウトは苦笑する以外できなかった。つぶやいたその言葉は綺麗に喉の中におちたのだから。
 「ゴウト」
 「…なんだ?」
 「いい夢が、見れるといいと願ってる」
 なんだ、それは、とライドウの真面目な顔が酷くおかしくてゴウトは笑ってしまう。ぷつり。ゆらり。頭の中でその言葉が駆け巡るたびに眠気はまし、触覚は遠くなる。
 「おやすみ、ゴウト」
 「あぁ、おやすみ」
 
 ライドウはゴウトの力の抜けた体を愛おしそうに撫でている。










春眠/ライドウと鳴海

 それはいつかの夏の日と奇妙な程に似通っている。ただ咲いているのはネムノキではなくて、その薄紅の色だけが非常に似た桜だ。その枝垂桜は何かを抱擁するようにうっそりと丸まっていた。鳴海の肩にライドウは頭を預けていて、いつかのように話をしていた。
 盆の上にはぼたもちがのっていて、四個あるそれは先ほどから一つも減ることがなかった。
 「今日は暖かいですね」
 「うん、しばらくは暖かいって」
 そうですか、とライドウは呟いた。ライドウは先ほどからずっと目をつぶっている。そもそも縁側で日を浴びるというそれすらも最近ではしなくなっていたのだった。
 「…なんだか眠いです」
 肩からかかる重みがぐらりと増す。その重みはいつだか感じたことのある重みだった。意識の無い体は重いけれど、死んだ体はさらに重い。
 「ライドウ、でも、すごくいい天気だ。桜も綺麗で、寝たらもったいないよ。」
 あぁ、多分おそらくライドウは俺より先に死んでしまう、と思ったのはいつだっただろうか。そう思った日や、思いながら話した事が多すぎて、鳴海はそれがいつだか分からない。
 「でも、鳴海さん、寝てもいいでしょうか?」
 駄目だ、寝ては駄目だ、と頭の隅で激しく怒鳴る誰かと、それをなだめる誰かを呆然と眺めながら鳴海は声を搾り出す。ライドウの肩に添えられた己の手は、その肩の細さを認めようとはしない。
 「駄目だよ。この牡丹餅だってすごいおいしいんだ。一個くらいたべなよ。」
 そしたら寝ればいい、と喋る自分の愚かさは酷く滑稽だった。止められないのを知っていて、それを止めようだなんて。海に流れ込もうとする川の水をせき止めることなどできはしまい。
 「…でも、眠いです。暖かくて気持ちよくて」
 「駄目だよ、ライドウ。ライドウ。」
 自分の口はバカみたいに彼の名前しかつむがなかった。盆の上に並んでいる牡丹餅の表面はすでに乾きかけていた。暖かい春の日差しは何かを抱擁するような枝垂桜を柔らかく照らしている。春の夜からもうすぐ一年が経とうとしていた。
 「ライドウ。明日さ、お花見をしようか。」
 そうだ、しようよと明るく振舞う自分の声は酷く空回りしていた。ライドウはけれど肩に頭をあずけたままで、眠そうに言う。
 「…いいですね、きっと、気持ちいい。」
 うん、だから、と鳴海は呟く。死なないで、ライドウ。
 その言葉を言ってしまったらきっと、全てを認めてしまう。今の今まで抗ってきたその認識。滑稽な己は最後まで彼の真実など知りはしない。知るものか。
 「うん、だから、……もうゆっくりお休み」
 肩にかかる頭の重みが増して、泣きたくなってしまった。あぁ、でもそんなことに意味はないのだ。彼は幸せを感じて生きる権利がある。今だって、きっと。