ネムノキ





 最初から何もできる事などなかったと、思えたらどんなに楽だっただろう。でもそれはきっと嘘で、やれる事はわずかにでもあった。ただ時間が選択肢を押し流して話を聞くことしか出来なくなってしまった。
 人間の死亡率は100%。いつか俺は死ぬ、ライドウも死ぬ、ゴウトだって。けれどそれには順番があって、俺はライドウが死ぬところを見たりしないのが本当は正しいんだ。だって彼はデビルサマナーだから、徴兵されたりしない。(何か無視してるって?そんなの気付いているさ。)
 そう、徴兵されないからって死なないとは限らない。デビルサマナーなんていう意味の分からない職業についている彼は日頃から銃や刀をもって、悪魔を使役し、喋る黒猫を引き連れて危険に身を投じていく。だから、だから、彼にこんな事が起こりうるなんて思いもしなかった。ライドウを哀れむなんてとても酷いけれど、それでも彼は幸せを感じて生きる権利があるのだ。今だって、きっと。
 あぁ、多分おそらくライドウは俺より先に死んでしまう。

 庭先ではネムノキがふわふわと咲いていた。あの扇のような花弁は先に向かうにつれてうっすらと薄紅になっていく。夏の終わりの日差しがぎらぎらと花を照らして、木陰は日溜りを作っていた。鳴海はというとライドウの話を庭先で聞いている。ライドウはぐったりと縁側に座りながら鳴海の肩に頭を預けている。先ほど作ったばかりのかき氷は早くも溶け始めていた。透き通った氷の一方は苺よりも毒々しい赤色で、一方は氷の色がそのまま見えるみぞれだ。鳴海はライドウの頭がずり落ちない様に気をつけて左手でかき氷を食べていた。
 鳴海にできる事と言ったら本当にもう多分、話を聞くことだけだった。ライドウの病の話をすることは随分と前にやめてしまったし、だから鳴海のできる事といえばただ話すライドウが辛くないような場所で話したり、話すときに椅子やベッドを用意してやったり、それも無いときは今のように肩を貸すことだけだった。
 「鳴海さん、今日は暑いですね」
 「うん、残暑は厳しいねぇ。もうすぐ九月なのに。」
 今年の夏の残暑は殊更厳しくて、蒸す夜に重なる咳の数を鳴海は数えていた。いつも思うことは昨日より酷くなっているというそれだけの事実だった。感情も何もかも鈍磨して、慣れていってしまった。いつか失われてしまうのだという状況に慣れてしまった。それはとてもおかしいのだが、ライドウの病を忘れる事とよく似ていた。
 なるみさん、とライドウは言う。鳴海は左手で器用に真っ赤なかき氷を口に運びながらうん?と答えた。
 「最初の話をしましょうか?」
 「最初?」
 ライドウが静かにけれどはっきりというその言葉の意味が分からず、鳴海はライドウに聞き返す。ライドウはあきれたようにため息をつくわけでもなく、半分ほど眠っているかのように重たげに視線をあげてつぶやく。
 「最初に喀血をした時」
 それは春の終わりの夜のことだ。己の掌がたどった背骨の形を鳴海はいつだって思い出すことが出来た。鳴海にとってそれは、決して今辿れる隣の少年の背骨と同じものではなかった。もっと、酷く取り返しの付かない感情を伴った感触。鳴海はそれをふと思い出しながら、うん、と相槌を売った。
 「俺はあらゆるものを切り捨てました」
 どんなものを、と鳴海は聞く。ライドウは、一拍だけ黙ってゆっくりと話し出す。
 いろいろあるのです、けれど大元は全て同じでそれはきっと、と囁くその声はささやかすぎて聞きとれなくなりそうだった。鳴海は黙ってライドウの話を聞いていた。ライドウがゆっくりと微笑むのが気配で分かる。
 「召喚師として歩む道のあまりの確かさに時折眩暈を覚える自分、でしょうか。」
 鳴海は目を閉じた。残暑の日差しは苛烈で、足をじりじりと灼いた。かき氷の器に放り込まれていた匙が氷が解けたせいで器にあたりからん、と鳴った。油蝉がじぃじぃと鳴く。あれは、繁殖のために雌を探す呼び声だ。早く見つけて早く気付いて。でないと死んでしまう。
 「切り捨てられたことを、少し感謝しました。」
 うん、と鳴海は頷いて病の話をするのはもう多分これで最後だろう、と思った。そんな予感がした。ライドウが自分のあり方に関してなんらかの感情を示すのを鳴海は初めて聞いたような気になっていた。
 「この病のお陰だと。」
 間違っているでしょうか、とライドウが聞いたので、鳴海はいいや、そんな事はないさ、と答えた。正しい、正しくないの基準がどこに引かれるべきかを鳴海は知らなかったし、それを自分が判断できるとも思えなかった。隣の少年がどんな答えを望んでいるかも分からなくて、目を瞑ったまま息を吐いた。
 「今日は暑いですね」
 ライドウが囁く。目を開けば、庭先のネムノキが太陽の日差しを受けて木陰を作っていた。かき氷はもう解けてしまっていた。みぞれの入っていた器には匙が差し込まれることは無かった。蒸す夜に重なる咳の数を鳴海は数えていた。いつも昨日より酷いという事実だけを思った。
 「今年の残暑は厳しいね。」
 えぇ、とライドウは答える。肩にのっている頭の重みが酷く切ない。