あの人はもうすぐ死ぬでしょう
ラヂオの向こう側で誰かが、連日の暑さを告げる。 ここ最近の出来事が酷く遠くて鳴海は笑いたくなってしまう。変わったことを数え上げてみるとそれは思いのほか多いものだ。例えば、季節が移り変わった。秋から冬へ、冬から春へ、春から夏へ。例えば、煙草をあまり吸わなくなった。ライドウとともにやってきた猫が嫌な顔をするからだ。例えば料亭で遊ぶときライドウの顔を浮かべる事が多くなった。彼が夕餉の支度をしているのだろうと考えてしまう。例えば探偵事務所に居る時間が多くなった。半分はだらけているからだが居ても辛くはなくなったからだ。自分以外の誰かが朝や夜にいるのだと信じられることは存外に鳴海を慰めた。例えばライドウが外套で歩く姿をあまり見なくなった。例えばゴウトの毛並みを梳いていた春の午後をよく思い出す。例えばライドウは学校に行かなくなった。例えば…、例えば… 誤魔化しや逃避が生む時間の残酷さを鳴海は知りたがらなかった。けれど現実は今なお容赦なく、そうラジオと同じように、鳴海に告げる。鳴海は窓の外を見て、ぼんやりともう夏だ、と思った。 ライドウが高等学校に行く事が出来なくなって一ヶ月が経つ。 ライドウはそれを隠そうとはしなかった。隠す余裕などなかったと、考えるべきなのかも知れなかった。いつもライドウに付き添っている黒猫は慌ててもよかった筈なのに酷く落ち着いていた。まるで、いつかこうなるのを知っていたかのようにただ黙ってその光景を見ていた。俺だけが大層慌てて、ライドウの背中を撫でさする。彼の咳は酷くなる一方で、嫌な予感ばかりが胸をよぎった。 そういえば最近食欲が無いと言っていた。背中がぎしぎしと痛むとも。背中を上下する己の掌が背骨を辿れるのがとても怖かった。彼は細身で前からきっとそうだったのだと思いたがっている自分が妙におかしかった。あれは春の終わりの夜の事だ。 夏の夜は短い分だけ濃い。とろりと墨を流したような窓の外は、遠くまで見渡せはしない。さらさらと流れる川の音が鳴海の耳を慰めるけれども、それは決して何かを覆い隠したりはしなかった。変わった事はたくさんあるのだ。例えば、夜に咳の音を数えるようになった。今日は酷い。昨日は軽い。また酷くなっている。もしかしたら快方に向かっている?夜中に、たくさんのことを考える。ライドウには聞かなかった。聞けなかったというほうが正しいだろう。残酷な宣告。たとえば流言の類。事実が肯定されるのはいつだって怖い。あそこの事務所の書生さん、結核らしいって噂の…。 一晩中咳が続くことがある。どうしたらいいのか分からなくなり、苛々と窓の外を眺めている。川の音はさらさらと鳴海の耳を慰めるけれど、決して咳の音を掻き消したりはしない。かき消したりはしない。 例えば食事を一緒にとらなくなった。ライドウが申し出た。鳴海は了承する以外に何も出来なかった。ゴウトは黙っていた。鳴海は出来うる限り炊事をやることになった。二人の食器を分けるようになった。ライドウの食事する風景を見なくなった。食器は常に洗われて炊事場においてあり、ライドウがどれだけ食べたのかを知ることは出来ない。 例えばゴウトと一緒に依頼人の元へ行くようになった。悪魔絡みでないと分かった時点で黒猫は姿を消す。どこに行っているのか知る由は無いが、鳴海が依頼を聞き終えて探偵事務所に戻るとライドウの話し声がするからきっとライドウのところに戻っているのだろう。悪魔絡みであれば、やはりゴウトは姿を消す。そうしてライドウを呼んで来るのだ。時たま事件現場でライドウを見かける。外套の下のその体を想像することは出来ない。どうしてそんなになってまで彼は任務を遣り通さなければならない、と聞いても仕方が無かった。その質問をライドウ自身が突き返すからだ。哀れんでいるのですか、鳴海さん?そう密やかに囁くその顔が何かを押し殺した末の無表情であったらよかった。軽蔑のような笑みでもよかった。でも彼はただ純粋に微笑んでいた。そして、出来るのなら、鳴海さん、この病では死なないと祈っていてください、とそう付け足した。その囁きは決して病に打ち勝つためのそれではない。けれどではなんなのか答えもせずにライドウは外套を纏って出て行ってしまう。 夏の太陽は冬に比べて小さい。緻密に質量が詰まりきって余剰の熱を体中から放出しているようだ。アイスクリンは売れるし、かき氷は見た目にも爽やかだ。蝉は合唱や輪唱を繰り返し、耳を休ませてはくれない。鳴海は急いでライドウの部屋の扉を開けた。扉越しに聞こえた咳があまりにも酷くて、頭を駆け巡るいくつもの例えばが、鳴海の手を動かした。 ライドウはここ最近の常なのだが、ベッドに横たわったまま本を読んでいたようだった。高等学校に行かなくなってから鳴海がベッドを窓際に移した所為で彼は昼間は窓から差し込む太陽の光で本を読んでいることが多い。シーツの上にほかされた本は料理書だった。そこに日常の匂いを感じてしまって鳴海は泣きたくなってしまう。ライドウは背を丸めて酷く咳き込んでいた。喉に空気がひっかかる、粘膜をはじくような音がぽろぽろと床に落ちていく。ときおり笛のように彼の喉がなった。窓枠の黒く濃い影が白いシーツの上に横たわっている。猫は熱いのか、陽の当たらない箇所でけれどライドウの傍にぴったりと寄っていた。咳がおさまり、口を押さえていた手には喀血の跡。 「一体、なんなんだ?」 「何がです?」 ライドウはその鮮紅色を冷たい目で見ながら、聞き返す。にべも無い返答に鳴海は一瞬言いよどんだ。 「…お前の、その、病気」 鳴海の声は力なくまるでライドウに届いていないかのような錯覚を起こす。扉から一歩先へ踏み出すことが出来ない。声はベッドに届くことなくどこかで墜落してしまったのではないだろうか。ライドウはため息をついて、けれど優しく笑った。 「なんと言って欲しいですか?」 その言葉に鳴海は絶句する。そうだ、この作業は確認の作業に過ぎない。ライドウからの宣告を、ただまつ、それだけだ。それは残酷な宣告だ。流言の類。昔ゴウトが言っていた。一番ましなのはあの人は死にました、次に辛いのは貴方はもうすぐ死ぬでしょう、一番辛いのはあの人はもうすぐ死ぬでしょう。 たとえば、とライドウは言う。 「例えばこの病気は結核ではありません。その可能性もありますが、これは召喚師になるにあたるリスクのようなものです。かかる確率は低い、しかしかかれば大方は死にます。けれどそれは結核ほど高くはありません、と言った所で」 結核です、ということと何が違うでしょう?いいえ、そもそも本当に結核でない証がある訳ではないのです。 こちらの声は届かないのに、何故ライドウの声はこんなにも明瞭に聞こえるのだろう。自分の声は蝉にすら掻き消されそうだったというのに、ライドウの声はたとえ雑踏の中でも聞き取る事が出来るだろうと思った。ゴウトが驚かなかったのはそのためだ。いつかどこかで誰かがかかった病気。召喚師である以上可能性はあって、それがたまたま彼だったというそれだけの事だったのだ。 「分かったら、鳴海さん、事務所にもどって下さい。うつりますよ。」 窓は開け放してあるにもかかわらず風は一切吹いてこなかった。鳴海は何かを言おうと口を開く。今このまま事務所にもどったらきっと、後悔するだろうと思った。ゴウトは、黙ってライドウと鳴海のやりとりを聞いていた。ライドウが倒れてから、ゴウトはあまり喋らなくなった。例えば、と頭の中で変わった出来事を数える。 「出来ない。ライドウ、できないよ。」 いくつもの出来事が脳裏を過ぎ去っていた。春に猫の毛を梳いていたことや、夕餉が事務所にあるのだと早く帰るようになってしまった事、初めて喀血した時の背骨や、外套の下の体や、そういう感傷的なものがいくつもいくつもちらついて、どこにも進めなかった。扉をくぐってライドウの元へ行くことも、このまま事務所に戻ることも。 「では、なるみさん」 そういってライドウは手を、鳴海にむかって差し出した。その手は喀血の跡で汚れている。何故肺から吐く血はあんなにも赤いのだろう。あんなにも鮮やかで、くらくらするのだろう。 「この手を取ってください。その扉をくぐって、この手を取ってください、なるみさん」 どうして、喀血の血は、思わず踏みとどまってしまう程に鮮やかなのだろう。窓からは強い光が短く差し込んで濃い影を作っている。白いシーツの上に置かれた本は料理書で、それは酷く日常の匂いがして悲しい。陽をよけて、けれどゴウトはライドウに寄り添って鳴海を見ていた。翠のその目はじっと、鳴海を見つめていた。 ライドウは手を差し出している。その手を取らなければならないのに、けれど足が動かなかった。 ラヂオの向こう側で誰かが、連日の暑さを告げる |