サロメ
みろ、あの月を! いつもとは違う! よみがえってくる女、死んだ女のようだ。きっと死者をさがしているのでは。





それは言うなれば美しい預言者の如く


 サロメという話を知っていますか?と昔誰かに問われたことがある。おそらくそれはライドウなのだけれども、けれど酷く情景が曖昧でいつのことだったか思い出せない。夏の蒸し暑い夜だろうか。結露で窓が曇る冬の深夜だっただろうか。それとも桜の花びらが舞う明け方だったろうか。枯葉が吹き込んできたあの、夜の。ともかくそれは夜で彼の頭上に三日月が昇っているのを覚えている。記憶の中のライドウは外套を纏っているから、それはきっと寒い時期のことなのだろう。あまり当てにならない推測ではあるけれど。
 ともかく彼はまるでかの偉大な音楽家リヒャルト・シュトラウスのように両手を広げてそう問うた。サロメ、とはまた随分と倒錯的な話題だと思った。大概において日常会話ひいてはうさんくさん売文家が引き出すこの歌劇はさながらワイルドの書いたあの妖しい世界を現実に引き込もうと失敗して、無残な結果になるのだ。この話題もそうなることが目に見えている。そうさ、あのビアズリーだって嘲笑しながら挿絵を書いたと聞く。月の中の女、腹の踊り。そうだこの連想、ライドウの頭上に三日月が昇っていたかどうか、記憶は想像とまじってぐらぐらと茹る。とにもかくにも彼は問う。サロメを知っていますかと。

 サロメという話をお前は知っているのかと昔誰かに問われたことがある。おそらくそれはゴウトなのだけれど、けれど酷く情景が曖昧でいつのことだったか思い出せない。夏特有の短い影が濃く刻まれる正午か、冷たい風が寂しく吹きすさぶ真冬の昼か、腕の中に安住する彼が暖かい秋のことか、それともするりするりと路地裏を歩いていた春のことなのか。ともかくそれは昼間でゴウト毛並みは太陽の光できらきらと輝いていた。自分が薄手のコートを着ていた印象があるからそれはおそらく春なのだろうけれど、あまり当てにはならない。
 ともかくゴウトはめずらしく俺に話しかけた、お前はサロメを知っているかと。脳裏をかすめる映像は酷く淫靡なそれだ。まだ未成熟の酷く美しい少女がアラベスクの模様が施された銀盤の上に美しい男の首を乗せている。そしてその銀盤をいとも簡単に見惚れる程たやすく操り、月光の中で踊る。少女の、足に纏わりつく薄布がひらひらと揺れている。そしてその銀盤の上に黒猫が飛び乗り、男の頬をなめる。黒猫?現実は記憶と混じってぐらぐらと茹る。とにもかくにも猫は問う。サロメをしっているのかと。

 サロメを知っていらっしゃる?と昔誰かに問われたことがある。それはおそらくタエちゃんなのだろうけれど、けれど酷く情景が曖昧でいつのことだったか思い出せない。彼女と出会ったばかりのあの血なまぐさい事件のあった夏のことなのか、初めて彼女が泣いたのを目撃した冬のことなのか、彼女の夢を知った秋のことなのか、彼女の現実を知った春のことなのか。彼女の目が赤かった印象がのこっているからそれはおそらく春のことなのだろうけれど、存外に涙もろい彼女のことだからこの推測はあてにならない。
 ともかく彼女は珈琲を飲みながら俺に問う。サロメを知っていらっしゃる?と。なんだか唐突に知っているさ、と答えなければならない気がして喉を震わせようとするが上手くいかなかった。サロメを知っているさ。言葉の攻防、狂ったようなやりとり、音楽も印象も人物も全てがどこか常軌を逸したあのくらくらとする筋書き。その中でただ母親と預言者だけが狂った人々を見下ろしている。一人は神によって、一人は権力によってただ揺らぎもせずにたっている。そうして銀盤の上の美しい男の首をこちらにさしだすのは、黒衣の…預言者。記憶は事実を凌駕し意識を遠のかせ、ただ夢の中で反復する。とにもかくにも彼女は問う。サロメをしっていらっしゃる?と。

 サロメヲ知っているかイ?と問われた。昔でも、誰かにでもなく、たった今、あのむかつく怪しい僧侶にだ。そんな事、推測するまでもなかった。今は真夜中で三日月が出ていて春で、そしてどこからか泣き声が聞きこえている。すすり泣きの、その声は酷く低い嗚咽だ。記憶は、現実と混じってぐらぐらと茹る。どこまでが記憶だ。どこからが現実?そもそもどこからが夢で、どこからが本当に起こっている。黒猫がつやつやと光る毛並みを緊張させ逆立てている。
 ともかく僧侶は銀盤を優雅に掲げながら問う。サロメヲ知っているカイ?と。だからなんだと吼えれば、すぐにその意図を知らされそうで怖かった。低い声で答える。あぁ、知っているさ、と。喉を震わせ声は僧侶に届く。僧侶は満足そうにその顔をゆがめて、インテリゲンチアな君にハきっと推測できているだロウと笑う。銀盤の上の美しい預言者の生首、銀盤に飛び乗り男の頬を舐める黒猫、銀盤を差し出す、黒衣の預言者。これは想像か、それともばかばかしい既視感か。とにもかくにも僧侶は告げる。お楽しみハ最後ニしなくチャ、と。

 質問:サロメの話を知っていますか?
 答え:あぁ、読んだ事が
 質問:その話を持ち出す意味を知っていますか?
 答え:少なくともろくなことにならないとだけ
 質問:最近変わったことはありましたか?
 答え:ライドウに連絡がつかない
 質問:猫はいますか?
 答え:黒猫だけがいる
 命令:今の状況を述べてください
 答え:探偵事務所に深夜、捜査に疲れて帰ったらラスプーチンが銀盤をもって椅子に座っていた
 質問:サロメと照らし合わせて考えられることは?
 答え:わからない
 質問:本当に?
 答え:………


 僧侶:「ワイルドハ言っタ。求めるものハ幸福ではナイ。断じて幸福デはナイ。快楽ダ、とネ。もちろん職務ヲはずれたわけデハないけれド、まぁ、本当ハここまデやるつもりなんテなかっタんダケド、多少の快楽ノ追求ハ許されるものダト思わないカイ?サロメはいうじゃナイカ。お前の唇ハ苦い味ガする。血の味なのカイ、これハ?イイエ、そうでハなくテ、多分それハ恋の味なのダヨ。」
 
 哄笑とともに、降る誰かの嗚咽。
 そうして優雅に差し出される銀盤の
 うえにのった
 くびは
 それは

「なんて痩せているのだろう!ほっそりとした象牙の人形みたい」「その肌の白いこと、一度も刈られたことのない野に咲き誇る百合のよう、山に降り降りた雪のよう」「お前の髪は葡萄の房、エドムの国のエドムの園に実った黒葡萄の房」「お前の唇は象牙の塔に施した緋色の縞。象牙の刃を入れた柘榴の実」

 美しい美しい預言者の/ライドウの/美しい美しい生首

 銀盤を持ったまま僧侶は告げる。一週間本当に楽しかったよ、と。目線の先で黒猫は銀盤に飛び乗って頬を舐める。それはいつかどこかで想像した風景だ。生首を差し出す黒衣の預言者も昔想像した風景だ。現実は記憶と混じってぐらぐらと茹る。僧侶は笑う。どこまでも笑い続ける。本当に楽しかったよ。あの日彼に出会ったのは偶然だったのだと、そこから話し始める。誰かの嗚咽が聞こえる、それを自分だとどこかでしっているのに、うるさいと思う。拘束の仕方、肩を外したときのうめき声、彼がかすかに呼ぶ助けの声を打ち砕いたときの、震えが来るほどの快感を、細かく正確に淡々と話していく。黒猫はただ銀盤の上でくるくると歩き回っている。懐の拳銃を怒りのままに突きつけて、引き金を引く。胸にどんと小さく開いた穴はなんにもならなかった。僧侶は笑う。サロメが死んだ理由ヲしっているカイ、あれハネ、死んでしまったものへノ口付けなんテ、何の意味モないからサ。

 だから、返してあげるヨ、と、僧侶は楽しそうに告げる