神様、堕落してしまいそうです





 一体これはどういうことだ、と鳴海は頭を抱えた。いくらここが怪異専門探偵事務所で、かつデビルサマーなるなんとも怪しい人々の活動拠点、帝都支店だとしても、やっぱりこれは頭を抱えていい事だと思わずに居られない。ドッペルゲンガーなどではないぞ、と俺につぶやく雷堂にどっぺるげんがぁ?とそのまま聞き返してみる。
 「そんな事も知らんのか。相変わらず自堕落だな。」
 それはちょっと酷い言い草なんじゃない、雷堂、と頭の中で思いながらドッペルゲンガーってなんだっけと反芻してみる。
 ドッペルゲンガー、独逸語で、生きている人間の霊的な生き写しを意味する。独逸語の「ドッペル (doppel)」は、英語の「ダブル (double)」に該当し、その存在は、自分と瓜二つではあるが、邪悪なものだという意味を含んでいる。また、自分の姿を第三者が見たように見えてしまう現象のことを言うときにも…以下略。
 などと頭の中で反芻してみた結果といえば何も有益なことはなく、目の前の二人の雷堂に(この表現はきっと間違って無いと思う)冷たい視線を浴びせられている。
 「自堕落って…、ともかく誰なの、それ。」
 「うむ、こいつは葛葉ライドウだ。」
 「はい?」
 「物分りの悪い奴だな。こいつは此処とは違う世界の十四代目だ。なんらかの手違いでこっちに来てしまったらしい」
 本来は、このように鳴海に挨拶などしている暇は無いのだが、だとかなんとか。じゃあ連れて来なけりゃいいじゃんという俺の主張はあっさり却下された。寝る場所も志乃田のお堂しかなくあいにく今は寒い季節なので、臨時の寝泊り場所というわけだ。雷堂の後ろに居るもう一人のライドウが無表情で静かに頭を下げていた。もう時間は深夜に近い。いいけども、と不精不精承知して事務所にあるソファで寝泊りしてもらうことになった。
 で、後はいつものお説教だ。家賃はちゃんと払えだとか、お前だって仕事してるんだからとか、竜宮のツケもいい加減払えだとか、色々。業斗が雷堂の肩で馬鹿にしたようにゆらりゆらりと尻尾を振っている。くそぅ、いつかお前の尻尾ちょんぎってやる!などと出来もしない考えを浮かべつつ、俺は黙って雷堂の説教を聞く。それをものめずらしそうに見ているもう一人のライドウは(あぁ、ややこしい!)それでも沈黙したままだ。
 雷堂に比べて随分無口なのだなぁと思っていると、お前ちゃんと聞いているのか、と雷堂のお小言だ。お前は俺の嫁さんか。

 「で、一応毛布これ使って。ごめんね、うちお客さん用のとかないんだよね。」
 雷堂は小言を言うだけ言った後、明日に備えてもう休む、とだけ伝えてさっさと自室に下がってしまった。ライドウをつれてきた割にはあまり構う気も無いらしい。毛布やら何やらはお前が用意しろと遠くから声が聞こえた。それで俺は今慣れないながらも毛布をひっぱりだしもう一人のライドウとやらに渡している。
 「いいです。うちもそうですから。よくわかってます。」
 あぁ、そういえば、このライドウはもう一人のライドウで、もう一人ということはもう一つの世界があってそこでも鳴海探偵事務所はあって、そこで彼は探偵見習いをしていて、そんで所長は多分俺なんだろう。そう考えると少しやりやすい。この雷堂に良く似た、同じ人物なのだからこの表現はおかしいのだろうか、ライドウは良く似ている分だけ何故だかとても話しにくい。
 「あー、やっぱ君のとこもこことおんなじなの?」
 「そうですね、ただ時間はこちらのほうが数ヶ月前のようです。貴方も、こちらの世界の鳴海さんとまるで同じです。」
 竜宮のツケを払わないところなんかそっくりです、と敬語で話されるのは酷く気持ちが悪かった。声も顔も同じなのに(まぁ傷はないけれど)態度が違うのはまるでこちらのほうが異世界に迷い込んでしまった気持ちになる。大層心細い。それをこの少年も感じているのだろうかと、余計なことを考える。俺にはどうでもいい事だ。この少年の行く先など。居たところなど。これからどうなっていくのかも。予期せぬ、違う世界の未来の訪問者。あぁ、なるべくなら会話をしたくないと思うのは何故だろう。
 警告。警告。今すぐに毛布を渡して、自室に下がりましょう。
 頭の隅が物凄い勢いでびぃびぃとなる。何故?
 「…鳴海さん?」
 朗らかな笑顔でライドウは俺の顔を覗き込む。雷堂より幾分か華奢だ。肌も白い。傷が無いから、雷堂のもともとの端整な顔がより際立って見える。部分は似ているのだ。だが、総合すると妙な違和感。笑顔も、いや笑顔が、酷く禍々しく感じられる気がした。ドッペルゲンガー…自分と瓜二つの邪悪なもの。彼の足もとでゴウトが咎めるように鳴く。するりと俺の顔を覗き込んでいたライドウが離れていった。
 「君は違う世界の住人なんだね」
 唐突なその言葉にライドウは首をかしげる。かしげて、そうですよ、と言った。
 「だって、君は雷堂と全然違う」
 それは当然です、とライドウは微笑む。全く変わらないその笑顔が仮面のようで気持ちが悪い。真夜中にともる天井の明かりが冷え冷えと俺とライドウを照らしていた。微笑んだままするすると彼の口から言葉がつむぎだされる。
 「貴方とまったく同じ体を持った人間がいて、その人間がもし肉ばかり食べていたらそれは貴方と同じ人間でしょうか?たしかに体の情報としては全く同じかもしれませんが、肉ばかり食べていた貴方は貴方よりいらだちやすいのかもしれない。貴方よりも愚鈍かもしれない。そのようなものです。」
 だからなんだ、と思った。論点のすり替え?何かがずれている。俺が言いたかったのはそうじゃない。そうじゃない。けれど一体、それは何だ?酷くやりにくい。雷堂だったらもっと、なんだろう、ひどく気安いのに。
 「俺とは話しにくいですか?さっきから目をそらしてばかりいます。」
 「正直ね。何を考えているか、君は分からないから。」
 「そう正直に言ってくださる分、貴方は好ましいですね。」
 「君に好かれても全然嬉しくない」
 あぁ、雷堂はなんて素直で可愛いんだろう、と涙を流したい気持ちで思う。お前は俺の嫁か!なんて邪険にして悪かった。あぁ、俺が悪かったから帰ってきておくれ、などと頭の中で展開される時代劇のようなやりとりをなんとか隅に追いやって俺はライドウと向かいあう。
 「俺は貴方が好きですよ?」
 「それは君の世界の俺に言ってやれ。」
 「違いますよ、貴方です。今ここにいる貴方がとても好ましい。」
 欺瞞、だ。彼は嘘をついている。嘘、というか、何かそれ自体から推測できる事実を見ていないのだ。
 「それは嘘だ」
 「何故?」
 「だってお前は…」
 正直な俺が好ましいというくらい、向こうの世界の俺に正直で居て欲しいんじゃないのだろうか、と
 いっていいものか悩んだ。雷堂も大概自尊心の強い人間だが、この少年はまた別の、酷くややこしい自尊心の保ち方をしている。やりにくいのはここから来ているのだ。俺自身が発した声は探偵事務所の床にぽとりと落ちて、そして二度と浮かび上がらなかった。
 ライドウはまるで何もかも見通したような目で俺を見る。酷く真っ黒な膿んだ目で。鳴海さん、と声が俺を呼ぶ。ライドウはゴウトに何事か囁くと、ゴウトは上手く扉をすり抜けてどこかへいってしまった。
 「鳴海さん」
 もう一度、彼が俺の名前を呼ぶ。毛布をソファに捨て置いて、じりじりと俺を追い詰める。がたり、と机に腰があたりもうそれ以上後ろに下がれない。真っ暗なその目はぽっかりとどこかへ通じている。囁く口は暗闇へ。闇の中で何か酷く怪しいものが蠢く。じりじりと焼け付くようなそれは、欲望に似ている。
 雷堂に似ているからこそ似ていない、酷く気持ちの悪い顔がゆっくりと近づいてくる。端整な顔だ。あぁ、このまま行くと唇が合わさるなどと、冷静に思う。真夜中の、明かりのついた探偵事務所で。何故だか酷くあわてて右手で電灯を切る。その行動に月明かりに照らされたライドウは嘲るように笑う。頭の隅の警報はもう鳴りすぎていて感じ取れなかった。

 「…ぃ…あ」
 何故だかなすがままだと考えて、俺は今日何回、何故と思っただろうと思った。だらだらといつも自堕落に座っている椅子の上で一回り近く年下の少年と行為に及んでいるのだなんて。そしてそれを特に止めようと思わない自分が、よく分からない。貴方がその気でないのなら勝手にやらせていただきます、とすらすらと言った少年は本当になれた手つきで全てを遂行していく。まるでそれが仕事であるとでもいうように。
 義務的な行為はどこか物悲しい。
 「よくこういうことはやるの?」
 「…っは…ま、さか」
 「嘘ばっかり」
 「さぁ…どうで、しょうか」
 ゆっくりと俺の肩に手を着いて腰を沈めていく過程に目をそらしたいような、そらせないような妙な気分にさせられる。俺の目の前で上下する胸が酷く頼りない。何かを忘れたがっているように見える、だなんて、思っているのを知られたらこの少年は思い上がらないでくださいと嘲るに違いないと分かるのに。何故だか言ってしまいたくなる。ねぇ、と耳元で囁けば彼の体が震える。酷く嗜虐心をくすぐられる。
 「じゃあ、何故今、俺と、こんなことをやるの?」
 聞けば、忘れたいからです、とあっけなく返されたことに驚いた。声は吐息に混じって聞き取りにくい。一体何を、と聞くのを躊躇った。それを見てライドウは微笑む。だから貴方は好きです、と囁く。
 きれぎれに上がる声の合間に唇が近づいて、合わさり、舌が入ってくる。厭らしい動きが歯列をなぞり舌を遊ぶ。何を忘れたいのかと聞かなかった。彼が置かれている状況もなにもかも俺の知ったことではない。明日に備えてと雷堂は言ったのだから長くは居ないだろう。全てを夢と割り切って、行為に専念することにした。泣きそうに顰められた眉にこちらが切なくなってしまった。

 「お前は全くいつまで寝ているんだ。」
 頭を叩かれて、はっと起きればそこは探偵事務所の応接間だ。ソファで寝ている。なんで?とぐるぐると疑問が頭をかけめぐるが、一向に答えが出る様子はない。
 「十四代目なぞ、お前を見限ってそうそうに志乃田に向かったぞ。」
 じゅうよんだいめ?と一瞬頭が混乱し、昨夜の情景に突き当たる。結局は全てやり終えて(いやだわ、下世話と心の中でふざけてみてもあまり意味はなかった)ソファに死んだように横たわるライドウを見て不意に泣きそうになりながらぼんやりと見ていたらいつのまにか眠ってしまったらしい。きっとこの状態はライドウがやってくれたのだろうと思う。(雷堂はこんなことしない)
 全く本当に情けない、などと足の間に業斗を居座らせたまま雷堂が小言を言うのに嬉しくなってついつい抱きしめてしまう。な、なんだ、気持ちが悪い!とじたばたする雷堂にもう泣きそうになりながら言う。
 「雷堂は、もう、本当に素直で可愛いな!俺大好きだよお前のことがー!」
 朝の光はなんて爽やかなんだろうと思う。昨夜のあのどろどろとした情景は朝の光の浄化されて消えていくような気さえする。ふざけるな、と雷堂に頭を殴られ、そのままソファへと戻される。
 「我は志乃田へ向かうぞ。十四代目はおそらく今日には還るだろう。何か伝言でもあるか?」
 「へ?なんで?」
 「十四代目は随分とお前を気に入ったようだったからな」
 あはは、と乾いた笑いをたてた。もう二度と会うこともないだろう彼に、残すべき言葉などない。なにもないさ、というと雷堂はそうか、とだけ言って業斗と一緒に出て行ってしまった。
 朝の情景は、昨夜の記憶を薄れさせるけれど。けれどきっと
 「忘れられないだろうなぁ、あれ」
 泣きそうに顰められた眉と、忘れたいからですと囁く声を。