目借り時の目鬼 ライドウが帰ってこない。彼が帰ってこないのは別に珍しい事ではないが、それでも夕方一回は探偵事務所に顔を出すなり連絡するなりで捜査の状況を報告してくれるというのに、今日は全くそんな様子もなくただただ月がのぼっていくのをぼんやりとみるばかりだ。心配せずにはいられない自分の過保護ぶりに笑う。あの顔で眉をひそめられると本当に余計なことをしてしまったと思うのだし。なにせ美形はすごむと怖いというのは自分自身で立証ずみなのだ。 「死んだかな?」 一日にも満たない時間連絡が取れないだけだというのに大げさかと思い、けれどもそれもいいな、と思った。何がいいのだというのだ。探偵事務所の明かりをつけて待っているのも妙に寒々しくて電灯も点けずに春の月見としゃれ込んでみる。霞がかった夜に浮かぶ三日月は詩的だ。 「こんな綺麗な月の夜にライドウが死んでいるのは絵になるからねぇ。」 まぁ、俺も大概絵になるけど、とつぶやいて煙草に火をつける。窓からは冷たい風が吹きぬけていく。昼間は暖かくても、夜は風が冷たくてとても寒いのだ。指の先はマッチの火でわずかに暖かくなりそしてすぐに冷えた。窓にむかって紫煙を吐き出すとゆっくりと煙は空に昇っていった。 「不吉な事を想像しないで頂けますか?」 馴染み深い声とともに扉が開いた。よりにもよって変な事を聞かれたな、失敗した、と思いながら今しがた点けた煙草をもみ消す気にもなれず煙を吐きながらなんとかごまかせないものかと思案する。どのような顔でその台詞を言っているのかと思うと振り返るのにも多少の勇気がいるのである。 「ただの賞賛だよ」 「だとしても冗談になりませんよ」 何、お前はそんなにやわなのかい?とからかう様に聞くと、時と場合によるものです、ライドウは涼しく返した。 「今は人間相手でも場合によれば俺は負けますよ」 何を冗談を、と言って振り返って絶句してしまった。彼はいつものように外套を脱いで壁にかけているところだった。外套を外し終えるとライドウはこちらに向き直る。いつもはライドウの足もとで行儀よくしているゴウトが今はライドウの肩の上でなにやら不満げに(としか見えないのだ)居座っている。 「捜査の進展状況ですが」 「その目どうしたんだ?」 思わずそうきくとライドウは一端言葉を切って、しばらく黙った後報告が終わったらお話しますよ、と言って捜査の進展状況を語ってくれた。語ってくれたけれど正直耳にはよく入らなかった。何せ彼はいつも目深にかぶっている学帽の鍔の直ぐ下に包帯を巻いていたからだ。両目をしっかりと覆い隠すそれは彼の頬よりも白い。包帯から伸びるすっとした鼻筋とその下の唇が滑らかに動くのを見る。あぁ、それで明かりが点いていないことに何も言わなかったのだと思い至る。 「以上です。追って指示していただけますか?正直手詰まりなので。」 「追ってって、お前それで明日も仕事するのか?」 「いえ、さすがにそれは無理があると思うので、あまり間を空けないほうが良いのなら明日にでも所長自ら動いていただくか、そうでなければ数日後には俺が向かうつもりですが。」 それを聞いてあまり重傷でないのだと安心してほっと息をついてしまう。ふと安心してしまった自分が大分保護者じみてきて舌打ちしたい気分になった。もっと気楽に楽しく生きるのが人生の目標であって、あまり錘を抱えたくないのも事実なのだ。(ライドウはそんな事を思っていると知ったら嘲笑しそうだが) 「いや、まぁ、それほど急ぐ事もないだろう。しばらくは紙面で事実関係を整理してみたらどうだ?」 新しい発見もきっとあるだろう、と提案する声が我ながら平坦だ。あっはっは、動揺している。たかが一年にもみたない付き合いの、一回り以上も年下の、全く愛想の無い生意気な助手が怪我してきただけだというのに。妙に悔しくなってまるで失敗をあざ笑うかのような気持ちでライドウに事と次第を聞く。 「で、その目はどうした。」 しばしの沈黙が流れる。彼の肩で不機嫌そうな猫はまるでライドウの答えを促すように一声鳴く。 「毒で目をやられました。入った場所が目だったので治療が難しくヴィクトルが少なくとも明日一日は包帯を巻いていろと。」 「何でまた?」 「光にあたるとよくないそうです」 聞きたかったのは病状ではなく、それも聞きたいことではあるのだが、何故目を怪我するかにいたったかだったのだがこの少年が素直に話してくれるとは考えにくかった。 「…あちっ!」 もみけしていなかった煙草が吸ってもいなかった為に灰になって指先に落ちる。おもわず熱さに呻いて、煙草をあわててもみ消す。ライドウがそんな様子を見て(感じ取ってというべきなのだろうか)ため息をつくのが聞こえた。だが特に何を言うでもなく、もう休みますとただそれだけを言ってライドウは猫を肩に乗せたままするりと扉を通って出て行ってしまう。その動作の滑らかさはとてもではないが目が見えないとは思えなかった。 「全く、どうするんだ、その目は!…あと三歩、左手に扉だ。」 耳の傍でゴウトが喋るのをライドウは聞き流している。いち、に、さんと数えて左手でさぐるとたしかにそこには冷たい取っ手があった。取っ手を回して部屋に入ると、空気が変わる。どうやら窓を開け放したまま出てしまったらしい。 「それなり新鮮だ、感覚が鋭敏になってる。窓を開けっぱなしで出てきてしまったらしいな。」 ライドウが全く自分の怒りに取り合わないのをみて、ゴウトはため息をついた。彼は今本当に目が見えていないのだ。不本意ながらもゴウトが案内役をかっているもののあぶなっかしくてしょうがない。一見すると何の不自由もなく動いているようにみえるのだろうが、それはひとえにライドウの雰囲気のなせる業であって、それも今回ばかりは禍としか言いようが無い。 「…そのまま直進で十五歩だ」 ゴウトがそういうとライドウは素直に十五歩、歩を進める。開け放たれた窓の取っ手をさわりながらどうにかして窓をしめようとする。 「…っ」 銀楼閣はあたらしいビルヂングであるが、それゆえに使い慣れないものもおおい。蒸気機関車の窓のように上下開閉する窓もその一つで閉めるとき多少気をつけていないと、指を挟んでしまうことがあるのだがそれを思い切りやってしまった。 「不便だな」 「当然だ!お前はすこし焦るべきだ。」 そういってゴウトはひらりと肩から舞い降りた。今日の夕方頃から長い間肩にかかっていた質量がなくなった事が幾分か寂しいあたり、やはり自分も心細かったらしいとライドウは他人事のように思った。右手に六歩、とゴウトが言う。ライドウは右手に六歩歩き、壁を触ってそこでかちゃりかちゃりと滑らかに管をはずし、銃をはずし、刀をはずし、立てかける。 「…明日一日養生していれば見えるようになる。」 左手に十二歩だ、とゴウトがベッドの上から囁いた。いち、に、ライドウは頭の中で歩を数える。明日は久しぶりに朝寝坊でもしようかとよくわからない決意をしながら。 翌日、探偵事務所の開業時間は妙に遅かった。そもそも鳴海は朝よりも夜が強い性質である。寝ていてもよいと言われれば昼の二時まで惰眠をむさぼる事だってできるのだ。その鳴海が経営する探偵事務所が十時という奇跡的な時間に開業するのも、ひとえにライドウの高等学校があるお陰だ。筑土町から高等学校は大して遠くはないが、それでも八時には探偵事務所を出なければならない。ライドウは出かけに鳴海を叩き起こしていくので、それで目が覚めた鳴海がしぶしぶと十時ごろに探偵所を開けるのである。 しかし今日はあいにく二人そろって寝坊をし(とはいってもどちらも寝坊することを決めていたのだから、予定通りといえば予定通りだ)、探偵事務所を開けるのが午後二時過ぎになってしまった。 「ライドウが動いてくれないと不便だ」 そう不満げにもらすのは鳴海だ。二時過ぎから延々書類の整理やら調書を書くなどの仕事をやり続けているのだ。窓際の机にはりついてうんうんうなっている鳴海はついに痺れを切らしたようにそう呟いた。 「今はあまりお役に立てませんよ。」 そうにべもなく答えるライドウは先ほどからソファに座っている。一応は電話番という名目なのだが今日電話がかかってくる気配は零だ。かちんかちんと刀の鍔鳴りが聞こえるのはライドウが絶えず手を動かして刀を弄っているせいだ。 「…いつになったら包帯とれるんだよ!」 「そうですね、明日の朝には。」 すました顔でそういっているのだろうライドウを見て鳴海は腹がたってくる。なんで俺ばっかり働かなくちゃいけないのだと普段の自分を棚にあげては憤っている。目は口ほどに物をいうの典型的な人物であるライドウは包帯で目が窺えないままだ。普段以上に何を考えているのかわからなくてやりにくい。 「高等学校はいいのかよ、サボっても。」 「この状態で行っても何の意味もないですから。」 かちんかちん、と耳障りではないが鍔鳴りの高い音は鳴海の耳を嫌が応にも刺激する。がたり、と椅子から立ち上がりつかつかとソファに座っているライドウの元へと歩を進める。ライドウの横でのんびりと眠っていた黒猫が近寄っていく鳴海に気がついて耳をそばだてる。ライドウはふっと包帯の下の目をこちらに向けた。なんですか、とライドウが聞く間にライドウの右手を押さえて体の上に馬乗りになる。ゴウトが夢現のままソファから転がり落ち、抗議の声をあげたが鳴海は無視をする。さすがに不意を打たれたライドウは重力にしたがっておとなしくソファに押し付けられる格好となる。 「なんですか?」 先ほどとは違う意味の問いかけに鳴海はとぼけたように軽い口調で答える。目が見えなくても体から発する雰囲気は刺々しい。 「刀、なんでずっと弄ってんのかと思って」 ライドウはふっと刺々しい雰囲気を潜ませて、そうですね、と今しがた自分の行動に気がついたように呟いた。そしてソファからだらりと垂れた左手で鳴海の顔を触りだす。鳴海は、少し驚いて、けれど身を引かなかった。ライドウは左手で鳴海の額を触り、瞼を触り、鼻筋を触り、頬を撫でる。 「視覚による情報が無いので、触覚や聴覚で代わりの情報を埋めようとしてしまうのです。貴方の顔も、今はこうすることでしか分からないのですから。」 そういってライドウは鳴海の顔を触り続ける。ライドウの指先には昨日窓枠にはさんでできた傷が赤々と残っていた。ふっと唇で止まったその指を鳴海は噛む。ぴくりと肩が動くのが面白くて、傷を舌でこじあけようとする。それほど大きな傷ではないから、かさぶたを溶かす時の薄い鉄の味しかしなかった。 「…所長」 ライドウが酷く小さな声で囁く。ライドウが鳴海を所長と呼ぶのは、皮肉を言うときか、鳴海の行動を非常に咎めている時かのどちらかだ。今はどちらだろうと鳴海は考える。どちらでもあてはまるような気がして、くっと笑う。笑った拍子に緩んだ歯の間からあっさりと指は抜けていってしまった。 「その包帯、お前に似合うよ。」 「そのようなことを言われても嬉しくなどありません。」 だって本当に似合うよ、と鳴海は繰り返す。なんだっけそういう話があった。みたくないものを見ないために、見ないものは存在しないのだと思うために自分の目を潰す話。その後目を潰した男はどうなったんだっけ。学帽の下の両目に巻かれた包帯を左手でするすると撫でる。ざらざらとした麻のような感触と、むかしよく嗅いだ消毒液の匂いにふと顔をしかめる。 包帯が巻かれた少年の顔はどこか現実離れしている。突然の行動に呆気にとられていた顔は今は軽蔑の笑みを浮かべている。本当に綺麗だ、と鳴海は思う。左手で先ほどライドウが鳴海にやったように、するするとライドウの顔をさわる。鼻筋を、頬を、撫でる。唇に触れた指をのけて、そのまま口付けた。 ライドウは驚かない。避けるために頭を動かしたりもしない。おそらく包帯が無ければ彼は酷くさめた目をしてこちらをみているのだろうと思った。傷をこじ開けようとした時のように唇を割り開いて、歯列をなぞる。逃げると思っていた舌が応える様に絡まれて、むしろそれに驚く。一度唇を離して、もう一度口付ける。妙に熱くなる自分はそもそも何故このような事をしようとおもったのか目的を見失っている。そもそも最初からそのようなものがあったのか定かではなかった。 (ライドウが死んでいるのは絵になるからねぇ、なんて) 間違っても思うのではなかったと、今は思っているのだ。いつなんどきこの目を覆う包帯が彼の、命を奪う傷に巻かれるのか分からないのだから。それを確かめたくて口付けを、だなんて。 そんなこと、目を潰した男よりももっともっと浅はかだ。 |