ご休憩なさったら





 自分の経歴は闇に葬り去られて、俺は全く裸一貫で世間に放り出された気分になった。実際そんな事はなかったし、はなはだうさんくさかったが、なにやら怪しい組織に仕事も斡旋してもらった。帝都唯一の探偵なる職業は、最初は怪異なるものに受け取られてはいたが、狐つきとかなんだとか怪しい依頼も舞い込むようになった。探偵としての情報網とやらに俺の抹消された経歴は非常に役に立ち(ということは基本的には抹消されていないのだろうか?)、依頼が舞い込むとやってくる怪しい人々のもてなし方にも大分慣れた。まぁ、ともかく俺は闇に葬り去られて、なにやら「怪しい」ばかりが冠につく怪しい探偵所所長をやっているのだった。
 「随分と険しい顔をしているのね」
 「まぁ、春だからね。変態も不機嫌もでやすくなる季節なの」
 はいはい、と俺の面白い冗談をつまらなそうにいなすのは近頃情報交換の相手として重宝している朝倉葵鳥殿だ。本名は朝倉タエというこの女性は平塚雷鳥に憧れて葵鳥と名乗っているらしいが、その記者しての腕はともかくとして彼女の風貌や雰囲気それ自体はタエちゃんと呼んで差し支えないものだ。今日もうっかりタエちゃんと呼んで三枚目の名刺を貰ってしまった。彼女は一体何枚名刺を渡してくれる気なのだろう。
 「それよりも霞ヶ関連続失踪事件の件調べついた?」
 今世間を騒がせている事件への並々ならぬ時間と費用のかけ方はさすがに新聞記者といったところだろうか。俺は乱雑に並べてある書類の中から、その事件に関する調書を探し出す。がさごそとやっている姿を見てタエはため息をつく。
 「もう少し、整理の仕方勉強なさったら?」
 「いいんだよ、もう少ししたらとてつもなく可愛い女中さん雇うから。」
 「そんなに儲かっているのかしら?」
 「お金は怪しい組織から毎月貰ってるから」
 大真面目に答えると、さっきの冗談よりよほど面白いわ、とタエは笑った。冗談なんかじゃないんだが、と思ったがあえて言わないで置いた。
 「あ、あった。これねぇ、一応調べといたけどあんまりタエちゃんの知りたいこととは関係ないと思うよ。ただの軍部がらみの事件だから。」
 あらそう、とタエはすこしばかり残念そうに言って、調書を受け取る。それと引き換えに依頼金の入った封筒をこちらも受け取った。
 「いつも毎度どうも」
 「なんだかんだ言って鳴海さんしっかり調べてくれるんだもの。助かるわ。」
 「これからも御贔屓に。特別割引価格はできませんが。」
 などと軽口をたたいてへらへらと笑ってみる。タエはじゃあ、また近いうちに、と扉をくぐって消えていった。俺は苛々としながら煙草を取り出してマッチで火をつける。そういや最近黄燐マッチの製造が禁止される動きがあるとか聞いたなぁと下らないことを考えてみても、苛々は消えるどころが増していくばかりだ。
 「あー、もう俺どうしちゃったんだろ」
 煙草を、吸うようになったのは最近だ。昔は真面目だったので(と言うと大抵のご婦人はまたまたご冗談ばかり、と笑う)煙草なんか吸うものではないと思っていたが慣れてみると意外と美味しいものだった。
 この探偵事務所を構えてまだ半年もたたない。自堕落な生活に慣れていくにつれてよくわからない焦燥感はますばかりだ。
 「やだなぁ、春。情緒が不安定になるよ。」
 暖かい空気が、この世のものではない高揚感を体に押し付けてくるのだ。あぁ、でも俺寒いから冬も嫌いだなぁ、今は、と一人ごちて自分の自堕落さをまた再確認している。
 「夏がいいなぁ。あったかいし、そんでどっかに消えちゃおうかなぁ。」
 闇に葬り去られた俺の経歴のように。霞ヶ関失踪事件で失踪していった数人の軍人のように。
 「でもさみしいな。消えちゃうの。」
 けれど生きていくのも、寂しい気がしてきてしまった。春のもたらす高揚感は、何かをしなければいけない気分にさせられるのだ。このような思いを抱く自分を忘れてしまいたく、ついつい調査に身が入ってしまう。調べてみれば軍部がらみの事件でなんなんだそれは、と思う。
 「あぁ、神様は酷いね。」
 忘我を望むならいっそこの身ごとなくなってしまえ、と極論で思う。それも簡単にできる立場だ。一体なにがしたい、と思うにはもう生きすぎた感がある。煙草を吸い込んで、婉曲的に自殺をはかってみても、死ぬのはまだまだ先だ。
 「神様は酷いねぇ」
 誰にいうともなくつぶやく。失踪したのは己ではないか。俺の経歴は闇に消え去り、俺は居なくなった。失踪した先でまだ失踪したいと願って、そして死ぬのか。
 「どうしようもないのは、俺か。」
 煙草を灰皿で押しつぶして、窓を開ける。タエちゃんは金王屋の前でおせっかいなおばさんに捕まっていた。窓からは暖かい空気が流れ込んできて頬を撫でる。春だと思うと憂鬱でたまらない。
 「まぁ、春だから、ね。」
 自分に言い訳をして、もう眠ってしまおうと思った。