角隠し





 それは角と呼ぶには少しばかりささやか過ぎる。だが何も無い額というにはいささか語弊があると言わざるを得ない。滑らかな額の湾曲した美しい線の上、たった一つその線を分断する膨らみ。それは角と呼ぶにはささやか過ぎる。だがやはり角以外の何物でもないのだろう。

 その角は(それでもやはり角と呼んで良いものなのか躊躇してしまう)、頭のあの頼りない骨が一部わずかばかり丸みを帯びて額の上方で飛び出ている、といった風なものだ。鬼のように尖ってもいない。触ると硬いがそれは皮膚の上から骨を押さえた時の馴染みのある硬さであり、特に違和感はない。それ以上にその角は皮膚に包まれていて、暖かく、血が通っているからか柔らかいような気さえするのだ。
 その存在を知ったのは本当に偶然だ。多分俺が知っていることをライドウは知らないのだと思う。夏の昼下がり、日射病のように憔悴したライドウが、気絶するように探偵社の天鵞絨のソファに横たわっていたときだ。彼自身の眠りは深いほうではないのだろう。(夜、探偵事務所の明かりがついていることがよくある)その反動ともいうように病気の名をかりる眠りはかなり深いようにみえる。もはや意識の断絶だ。
 その時そう思ったのは純粋なる気遣いからだ。いや、六割ほどはいつも学帽を脱がない探偵助手に対する悪戯心があったのも否定できない。しかし四割は本当に純粋な、日射病で倒れるのなら帽子は脱いでいた方が良いのではないかという気遣いだったのだ。それに、そう、そのときソファに寝転ぶ彼はちょうど魘される様に首を動かしたところだった。昔からそれなりに器用だったし(今だってすれ違う人間、三人や四人の財布くらいすれる、やらないけど)、だから帽子をとるのにはそれほど苦労しなかった。
 学帽をとって見えたライドウの額に角らしきものがあったときも驚かなかった。むしろ驚かなかったことに驚いたくらいだ。何故あの突起を角だとすぐに確信したのだろう。けれどすぐに角なのだ、と思った。三階という高層の開け放たれた窓からは空に近い強い風が流れ込んでくる。セミの声も、ただ耳を打つ。
 ふっと、学帽を左手に持ち替えて、右手でゆっくりとその突起にふれる。どのような感触なのかを触れる数瞬前に考える。触ったことは無いが、鬼の角のように石の硬さをしているのだろうか、などと。しかし夏の気温で汗ばんだ額のそれは薄い皮膚のやわらかさをしていた。すこしばかり力をこめると皮膚の上から骨を押さえたときの、あの硬さがしたのであった。
 その角は小さい。まるで瘤のように額のすこし上方に丸く突き出ている。尖ってはいない、あまり大きくも無い。瘤だ、と言われれば多少変形しているものの、それで流せてしまいそうだと思う。ただこのいつも感情の顔に表さない少年が学帽をかぶっていてそれを室内でさえ外したことがないのだという事実があるのだからこの瘤がただの瘤ではないのだろう。
 「…ライドウ」
 小さな声でささやいてみる。あんまりにも小さくて自分の囁いた声はセミの鳴き声に消されてしまいそうだ。ソファの背もたれに学帽をもった左手をつく。ライドウの体の横に右手をつくとソファのばねがぎしりとなった。
 「お前は一体、本当に人間かい?」
 この世が人間だけで成り立っているとは決して思わない。だが、現実という仕組みをつくりそれを動かしその中で生きていけるのは人間しかいないのだ。人間ではないのかもしれない、と取れるような額の突起を鳴海は間近でみる。少年の顔は死人のように色がなく、吐いている息も浅かった。
 突起は少年の肌の色よりもさらに白い。鉱石のような白い白い色をしている。幼い頃、丸くて半透明な泡の浮かぶびいどろを口に含めたがった事を唐突に思い出す。角は、びいどろとよく似ている。その自然にはありえない人工的な、透明さ。
 もともと近づけていた顔をさらに近づけて鳴海はライドウの額をなめてみる。触ったとき汗ばんでいると思ったとおりわずかにしょっぱかった。舌でたどる感触は頭蓋骨のそれとなんらかわりない。幼児が生え出した歯をむずかり噛むものを探すようなたまらない気持ちで角を甘く噛む。かりっと高い音がして、やはり骨で引っかかる。急にセミの声が耳をつんざく。ライドウの体の横についた右の掌がひどく汗ばんでいることに気がついて、急いで体を起こす。大分緊張していたらしい、と自分のために平静を装ってへらへらと笑ってみる。
 ライドウは常日頃からすれば非常に珍しいことであるのだが、全く起きる気配を見せずただ昏々と眠っている。意識を失っているといったほうがもしかしたら正しいのかもしれない。壁際にかけてある外套を見ながら、鳴海はため息をつく。暑いのは嫌いだ、暑いのは嫌いだが、せめて今日のお詫びにソーダ水でもおごってやるべきだろう。目が覚めた時にソーダ水を差し出したらあの探偵助手はなんと皮肉をいうのだろう、と思ったのだ。

 あれは思えば幸福の記憶である。むせ返る程暑い空気のつまった幸せの情景であった。ということを何故よりにもよって今思い出すのだろう。目の前で悲鳴をあげながらうめく少年はもう帽子などかぶっていないのに。足かせが外れないのだ。関節の外し方をすぐに思い出さなければと思えば思うほど、入れ方を思い出し、ただ無駄に焦るばかりだ。
 目の前で少年の背がみしみしと音の聞こえそうなほど反っていく。だが背骨の悲鳴は少年自身の悲痛な声にかき消され鳴海の耳にはとどかない。足かせを、と鳴海は思う。外さなければと。けれど外して次はどうするのだろう。この鉄格子をすり抜けてはいけないし、頭の鈍痛も抜けきってはいない。
 露西亜の怪僧ラスプーチンなんてひどく下らない名前だと笑い飛ばしたこともあったはずであったのに、意外な程に職務に忠実で悪趣味なダークサマナーはライドウをいたぶることを楽しんでいる。俺の目の前で、だなんてかつて無いほどに最悪だ。もしも今俺の手に世界を滅ぼすからくりでもあるのなら思わず起動させてしまいそうだ。どうしてそんな事を思うのだろう。理性が働いていない。いや、頭自体が霞がかっていて上手く動かないのだ。拉致された時にどんな薬品を使われたのだろうと考えると頭が痛い。(だなんて冗談を考えるのは現実逃避に違いないのだ)
 男はやわらかな額の線を分断するあの美しい角の根元にぎりぎりと爪を立てている。まるで豆腐に包丁でも沈めるようにあっさりとけれども酷くゆっくりと男の爪がもぐりこんでいく。かりっと音がして、まるで既視感を呼び起こさせるような音だ、男の爪がもぐりこむの止める。もうやめろ、と声が出ない。
 「額はネ、神経が集っているカラ、痛みが強イのだよ。同じコトハ手にも言えル。小指をオトスのは手には神経が集ってイルからなのさ。」
 怪僧の言葉がいやにはっきりと耳にとどく。君の痛みで歪んだ顔は本当に綺麗だね、とあんまりにも流暢でまるで自分がいったのではないだろうかと鳴海は錯覚しそうだった。
 ぱきん、と乾いた音がする。骨の砕ける音とよく似ていた。鉄格子越しに見えるライドウはその音と同時に目を限界まで見開いて背を反らすのやめた。意図しない涙が目じりから落ちていくのが見えた。おそらく気絶をしたのだろうと冷静に思う。見開かれた後体から力が抜けていくのと同時に閉じていく瞼に声も出ない。ラスプーチンは本当に楽しげに笑いながらこちらにむかって指をさす。視線そらせないでいる鳴海の頬に生暖かい肉がへばりつく。ぼとりと目の前におちたそれは骨の混じった皮膚だ。あの、ひっそりと生えていた角の欠片だ。
 「何が…」
 目的だと問うても無駄だと思った。男は楽しんでいるのだ。それ以外におそらく理由などない。ソーダ水を買ってきたらあそこで気を失っている探偵助手はどんな皮肉をいうのだろうと思ったのはいつだったのか、思いのほか近いのかもしれないが、年月を忘れるほどの昔かもしれなかった。この状況は打開できるのだと、心の底から信じたかった。ライドウの額からぽたりぽたりと顎を伝って赤々とした血液は地面に落ちていく。