絞殺 真夜中の探偵事務所の机の上で首を絞められている少年がいる。首を絞めているのは良い大人で酒の匂いがする。男は思う。そうだ、そうだ、全てアルコオルが悪いのだ。 酔っている、と自覚している。酔っているから怒りが収まらないのだし、酔っているから力が加減できないのだ。鳴海、なんて馬鹿な事をしているんだと冷静に考えて、ふと鳴海が自分の本名で無いことを思い出す。そしてそれはこの少年も同じことなのだ。少年は葛葉ライドウの名をついだ十四代目で、彼の名を自分は知らない。お相子だ、と馬鹿にしたように思う。 「随分と表情が豊かでいらっしゃるんですね。」 鳴海の体の下でライドウがつぶやく。鳴海の掌の下にある少年の喉が奇妙に震動した。肺から出る空気はライドウの喉を伝って声になっているのだ。喉が圧迫されているためがライドウの声は掠れていた。頭に血が昇って吐き捨てるように言う。 「お前に比べれば誰だって表情は豊かさ。」 酔っているから力が加減できないが、酔っているからさほど力もこめられない。それでもライドウの首に食い込んでいる鳴海の指は、脳に血を送れずに苦しむ彼の血管の脈動を感じ取れる。ライドウは眉間に皺を寄せて、ひゅう、と息をした。吸ったのか吐いたのか鳴海には判断しかねた。 「子供一人死んだ位如何と言う事もないで…」 しょうに、と続くはずだった言葉を鳴海はかっとなって文字通り握りつぶした。喉をぎりぎりと絞める。突然強制的に分断された声の残滓がかはっという息とともにライドウの口からもれた。鳴海の耳に首が圧迫されるみしみしという音が聞こえる。幻聴だろうか。 机の上でゆらゆらと刀の柄を探している右手だけが、この少年が苦しさを感じているのだと知らせていた。そう思ってしまうほどにライドウの顔は変化していない。眉をひそめ、目を細め、ただ口だけが彼の苦しさを表すようにわずかばかり開いてひゅうひゅうとなっていた。憎らしい程整った顔は、窓から入る月の光に照らされていっそ殺してしまいたい程癪に障り、美しいと思う。 「あの子は…」 鳴海は搾り出すように呟いた。まるで鳴海の方が首を絞められているかのように苦しげに顔を歪めている。手に、力が入りすぎて掌の下の細い首は折れてしまいそうだ。 「あの子はまだ小さくて、母親と一緒で、死んで良い理由なんてどこにもなかったんだ。母親の嘆き様をみてもなお、お前はそう言うのか?」 ライドウは答えない。鳴海自身が首を絞めているのだから答えられる筈もない。掌に込める力はどんどん強くなっているのだから。頚動脈が蠢く。ライドウは口を薄く開けたまま、嘲るように微笑む。 「見てもなお、お前は子供一人というのか。たかが子供一人死んだとしても…」 腹に衝撃。鳩尾に革靴がのめりこんでいる。酔っていて自分の下の少年が蹴りを放ったのに反応できず、まともにくらってしまった。ずるりと鳴海はライドウの体の上に崩れ落ちる。首を絞めていた指から力が抜けてそのままずるずると胸あたりにへばりつく。ライドウの顔は鳴海からは見えない。 「あの子供と帝都万人の命を天秤にかけるおつもりですか?鳴海所長。」 ライドウの発した言葉が軽蔑の響きしか含んでいなくてぞっとする。彼は躊躇しない。彼は躊躇わず戸惑わない。帝都を守れない彼に存在意義などないからか。そう彼が思っているからか、疑問もなく。何を言いたいのだろう、自分はと鳴海は思う。 「違う。そんな事を言っているんじゃない。」 「では、どのような意味です?」 搾り出した言葉もライドウににべもなく返される。どのような意味と問われ答えられるなら始めからこんな行為など行わないというのに。 「…違う。ただ…」 「ただ、なんです?」 「こんなことは間違っているんだ。」 何が、間違っているのだろう。子供一人の犠牲を毎日積み重ね保たれる平和か。それともそれを守るためだけの人間が存在することか。人はあくまでどこかに属さなければならない。権力に、家柄に、もしくは何にも属さないという場所に。ライドウは、あなたはわかりやすくていいですね、とささやいた。平坦でたどたどしいその口調は彼の外見に似合うとも似合わないとも言えなかった。 「間違っているとは、一体何をもって言うのです?もしも俺達に知らない事があるとして、強いられた事があるとして、それをするしかないならば、選ぶ以外に何をするというんです?」 少年は優しく体を起こす。鳴海はずるずると椅子にずりおちる。ライドウは壁にかかっている刀を一瞥し、しかしそれ以上なにもせず鳴海のほうへ向き直って言う。 「選ぶと決めるか、選ばされるかのどちらかでしょう?あなたはどちらをとるのです、鳴海所長。」 所長、と呼ぶその声は気持ち悪いほど優しい。呼びかけられるその声ははっとするほどよく通り酔いを醒ましていく。醒ましていくと思うほどに、酔いを深めていく。 「あなたは一体何を哀れんでいるのです?」 椅子の手摺に左手を置いて、ライドウは鳴海の肩に右手をおしつける。首筋の赤い手形はおそらく明日には痣になるだろう、と間近でみて思う。死んだ子供。赤マント。泣く母親。ライドウの涼しい顔。昼間の情景が繰り返し蘇る。子供の胸をばっさりと横切る刀傷は一体誰が? 答えに詰まった。何を哀れんでいるのだろう。あの幼い子供の描かれる筈であった未来か、この少年の行く先まで見通せる暗闇か。違う、と誰かがいう。だが何が違うのだ。訳の分からない違和感だけが増幅している。 「忘れてしまいませんか、所長」 ライドウはふっと鳴海と視線を合わせた。思いの外近くにある顔に驚く。普段色白といわれることの多いその顔は無機質さを伴って人形のようだ。何を、とかすれた声でつぶやく。 「貴方が許せないのなら、忘れてしまいせんか、子供を。」 幸い酔いは深いようですから、きっとすぐにでも忘れられますよ、とライドウは首の手形を指でなぞりながら言う。できそうだ、と反射的におもった。その言葉に惑わされそうだ。酔いは深い。酒で眠くなる性質ではないが、酒の効果に甘えてしまいたい。けれどもこの少年がそうして何かを切り捨てていくのを見過ごすのは間違っている。十七歳の少年がただ己に課せられた義務を全うするためだけに子供を切り捨てる情景は間違っているのだ。 「…ライドウ。」 搾り出した名前は何の意味も紡がない。眠さが意識を侵食していく中で、まるでそれしかできる事がないかのような気持ちで目の前の少年を抱きしめた。少年は突然の行動にしばし呆気にとられ、首を絞めたり、抱きしめたり忙しい人ですね、と言った。 「もう眠ったら如何ですか?あとで毛布でも持ってきましょう。」 おそらく明日には全てを忘れているだろう、とそう思った。 真夜中の探偵事務所で抱きしめられている少年がいる。抱きしめているのは良い大人で、酒の匂いがする。少年は思う。そうだ、そうだ、全てアルコオルのせい、と。そうして戯れに目を閉じる。 |