ぽつねん、と 夜は、さみしいから嫌いだ。寂しいと感じる自分が嫌いだ。春を辟易してしまう自分が嫌いだ。だから春の夜がとても苦手だ。 また春が来た、と思った。春が来た。一年の本当の始まりは元旦で、正月にはあけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたしますと言って家族で過ごして一年を始めるのだ。そのような場面に居合わせることは近頃はないけれどそれが一年の本当の始まりのはずなのに、どうして春がくるとやっと季節が動き出すような気がするのだろう。(事実師走から続く気候が変わる時期でもあるのだが) 春は始まりの季節だという。仕事がはじまり、学校がはじまり、いろいろなものを築く時期だという。けれど結局自分は代わり映えのしない毎日を過ごしている。鳴海探偵事務所の椅子にあの自堕落な所長はいつも座っており、依頼を依頼額や依頼人でえり好みをし、人を便利屋くらいにしか考えていないのかもしれない。というか確実にそうであるような気もする。 一応鳴海探偵事務所は怪奇現象専門のうさんくさい、ヤタガラスの遣いによるとそれくらいがちょうどいいらしい、探偵事務所であるから舞い込む依頼もそのようなものが多い。やれ人形が動く、鬼に呪われた、屋敷の蔵に人食いが、などの良く聞く怪談に終始する。その中で本当に悪魔の仕業であるものは少なくは無いのだが、それでも大したことではない。 面白いことだ、と思うがそういう霊的な頼みごとというのには流行というか季節物がある。春の初めとなると昔心中した娘が恨んで父を呪っているとか、狂ってしまった母が桜の下から湧き出てくるとかそういうものが多い。人の感情がからんでくるので割合面倒くさい依頼だ。 そして今日はしっかりその面倒くさい依頼だったわけだ。鳴海は依頼を選んでいるはずなのに、なんでこのように面倒くさいことを、と思う。いや、選んでるからこそ面倒くさいのかもしれない。自分がやらないのならば多少の苦労に人は無関心になるだろう。 また春が来た、と思った。春が来た。春ははじまりの季節だという。いろいろなものを築く季節だという。けれど結局自分は代わり映えのしない毎日をすごしている。 (春か…) まだ桜は咲き始めない。お堀の傍の桜並木は蕾すら気配を見せない。探偵所の窓から見えるのは満月で、あぁ、今日は悪魔と出会わなくてよかったと思う。刀や管やそういうものを使わなくてすんだという一日の終わりをどう過ごして良いか分からない。良かったのか、悪かったのかぐるぐると考えたくないことまで考える。自分のこれからや(そんなものもう決まりすぎるほどに決まっている)、どのように死ぬのか、誰か悲しんでくれるのか。 「それは無いな」 そう、まして望んでもいない。 自分の呟きを耳に滑り込ませたらしいゴウトが肩口でふっと視線をよこした。無視してもよかったがあまりそういう気にもならず、左手でゴウトの頭をまるでそれが習慣であるかのように撫でる。普段は侮辱にあたるらしい行為も、何故だか今は黙認されているようだ。春の夜の空気は、人を孤独にする。甘く柔らかで現実を見失いそうだ。そもそも見るべき現実は一体どこに? ゴウトの視線は心配そうな気配を漂わせている。わずらわしいと思う反面、酷く疲れていて甘えてしまいそうだった。桜の木の下の狂った母親は、息子を食うらしい。昔、母を見捨ててしまったからそれを恨んでいるのだそうだ。屋敷の庭のただ一本の満開の桜は、なるほどたしかに梶井基次郎の小説のようだった。桜の木の下には狂った母の死体が埋まっている。あぁ、くらくらする。 「もう春だ」 ゴウトの頭に乗っている左手が暖かい。だがあまりにも小さすぎてすぐに消えてしまいそうだ。 「春はいいな。暖かい。」 「そうだね」 刀と銃、そして管はまとめて壁にかかっている。手を伸ばしたら安心するだろうかと考えて、よくわからなくなったのでやめた。春は、本当に全てが始まって、自分を確認しなければならないから嫌いなのだ。そしてそんな事が嫌いな自分が、いっそにくい。再確認の手段もとれない、確かめるのも怖い。ただある意味諾々と流されている事をふと自覚する。春の夜は思考が定まらない。流れていく。 「今日は悪魔に出会わなくて…よかった。満月だし、面倒くさい。」 「だが依頼は悪魔以上に凶悪だ。正直聞いているだけでも疲れたぞ。あそこの主人は大丈夫なのか?」 「さぁ、ねぇ?明日あたりに息子、殺してるかも。それで母親の崇りだーなんて。」 「冗談になっていないぞ」 饒舌になっていると自覚している。何かおかしいとおそらくゴウトも感づいている。あぁ、くらくらと、めまいがして。すべて本当はわかっている。少なくとも自分のこの不調の原因くらいは。襤褸が次から次へあふれ出てくるのをとどめることができないだけだ。それだけでも大分どうかしている。 「明日も早いぞ。早く寝ろ。」 「そうだね」 窓から月が見える。広い空にぽつねんと満月が浮かんでいる。白い光は奇妙に赤味がかっていてここは異界だろうか。あちらこそ自分の領分であるような錯覚を覚える。悪魔でもない、人間というには悪魔に近すぎる自分の領分である気がする。 左手から感じるゴウトの柔らかい暖かさが春の夜の中ただぽつねんと浮かんでいる。 |