野槌 序
雨は降り続き、止むことがない。茜に中黄の円、紅梅の鞠の描かれた傘の縁からにじむ水滴を目で追う。ほんの小雨にぱたぱた、と雨が降り出したのは三日前になる。薬箱をぬらさないように幾分か気をつけながら薬売りの男はあてどなく歩いていた。ぬかるんだ地面を感じさせないような浮遊感のある足取りで、青磁に黄や緑の文様の散った贔屓目に見ても視線をあつめる着物を着ていてなお、誰も男には気づいていない。人だかりの出来ている宿屋の前で男はふと立ち止まる。傘の縁から水滴がひとつ、ふたつ。
「こんな降り方めずらしい」 唐突に振り降りた言葉に、薬売りは顔を上げた。すすけた朽葉の傘を持った男が一人佇んでいた。そう思わないかい?とこちらを向いて問うのに薬売りは少し瞠目し、紅を差した唇をかすかに上げて笑った。 「ここらは、馴染みがないもんで」 薬売りがそう答えると、そうかい、そんなものかね、と男は暗い声で呟いた。傘に隠れて男の顔はよく見えない。紺色の長着のすそが雨に濡れて濃い。すそからぽたり、と水滴が落ちた。あの人だかりは、と薬売りは男に聞くと、男はそうなのかい、とだけ答えた。 「目が見えねぇんだ、何があったんだかね」 ここは宿場町だ、行きずりの死体も多い、大方そうなのだろうよ、といいながら男は傘をくるくると回した。朽葉の傘には細い柳の葉が雨で張り付いてる。男が傘を回すと、柳の緑も回る。くるくる、くるくる。長雨は細かく、けぶって、視界はぼんやりと白い。 人だかりはざわざわと雨にまぎれて騒ぐ。声が聞こえる。旅芸人の女だよ、昨日見かけた。三味線抱えて死んでいる。それにしてもこれは異常すぎやしないかね。きゃらきゃらと飯盛女が盛り上がる。こうも雨が降っちゃあお客人も動かない。忙しいのか暇なのか、わかりゃしないと。 「どんな女か、見てきてくれやしませんか」 隣の男が不意に呟いた。薬売りは表情を変えることなく、少し沈黙をする。雨音がぽたん、と響く。薬売りの口が声を発することなく幾度か動いた。薬売りは目を細めて、声を発する。 それは 「かまいませんが」 ばしゃ、と傘が地面に落ちた。ぬかるんだ地面に、朽ち果てた和傘が落ちている。振り返ると男は既にいない。薬箱ががたりとなる。宿屋の中から番頭らしき男が出てきて、人だかりを追い払う。見世物じゃねぇぞ、さぁ散れ散れ。 薬売りは目を眇める。雨は降り続いている。 「いやぁな天気だね、松太郎」 髪をさっぱりと結い上げた女が一人、男にしなだれかかってそう呟いた。男は鬱陶しげに女の手を振り払ってそうかね、と呟いた。 「あたしは雨が好きだがね」 「程度の問題さぁ」 あんたはなんにもわかっちゃいない、とあけすけに女は囁く。雨戸が閉められた窓は宿屋全体をすすけさせていた。女は紅梅の小袖をいじりながら、男に文句を言おうと努める。 「こんな雨が続く時に、良い事があったためしがない。先刻だって」 お菊、と男は女をたしなめた。宿屋の前に打ち捨てられた旅芸人の死体の噂で宿場町はざわついていた。なにせ旅芸人の女には両手両足がなく、三味線を抱えて死んでいたのだ。そんな女に宿屋の前で死なれた女将は相当ご立腹だったようだし、当の宿屋に泊まっている男と女にとってもあまり良い話ではない。 「弾く手もないのに、三味線なんか持つものかねぇ?」 男は女をたしなめるのを諦めたのか、半ば力の抜けた声で答える。 「さぁ、ここに来たときはついてたんだろ」 「誰かが切ったって?」 「四肢は勝手に離れんさ、大体足もなく、どうやって旅をする?旅芸人だというのに」 ちがいないねぇ、と女はしなだれかかったまま笑った。からからとあっけなく朗らかで、はばかりのない笑い声だった。暫く笑い続けた後、ふっと息を吸って黙った。 「よくない事が起こりそうだよ」 「もう起こってるじゃねぇか」 そうだねぇと女は呟いた。雨が屋根を打ち続ける音がする。ぎぃと扉がきしんで鳴った。男と女はふと宿屋の入り口へと視線を投げると、そこには何時の間に現れたのか、薬売りが一人濡れ鼠で立っていた。片手には茜の傘を持っているというのに、妙な男だと、女は思う。番台にめずらしく出ていた番頭が、嫌な顔をしながら言う。薬は今はいらないよ。薬売りはその言葉に特に反応を示さずに笑った。 「宿を、お願いしたいのですが」 薬売りの髪から、ぽたりと雫が落ちて、端正な微笑はちょうど奥からやってきた女将の目を捉えたようだった。女将は一瞬息を止め、にっこり笑って、どうぞと小さく呟いた。板張りの廊下が濡れるのに、番頭はすこし嫌な顔をしたが、女将は気がつかなかったようだった。 手ぬぐいを渡されて、濡れた体をおざなりにふくと女将は薬売りを部屋まで案内した。宿屋は庭が敷地の真ん中にあり、それを部屋がぐるりと囲んでいる造りになっていた。宿屋は茶屋を兼ねており、男と女が一組騒いでいた、と薬売りはぼんやりと思った。庭には枯れかけた柳が一本生えていて、雨に打たれて萎れていた。薬売りが柳を見ていることに気がつくと、女将は少し嫌な顔をした。 「あの柳、見目が悪いでしょう」 柳は枯れかけてはいるものの、大いに葉を茂らせていた。細い木の枝は雨に濡れて濃い煤竹になっている。伸ばした指のようなかさついた黄色が雨によって左右へと不規則に揺れていた。 「お切りに、ならないんで?」 薬売りの言葉に、女将は曖昧に微笑んだ。いやねぇ、とぎこちなく口が動く。 「切るなといい含められておりまして」 ほう、と薬売りはため息をついて、声を発さずに唇をわずかに動かした。いつまでも立ち止まっている薬売りを不審に思ったのか、女将は薬売りに声をかけて、歩き出した。薬売りの男はしばらく柳を見つめるとふいと視線をそらして、女将の後に続く。 薬売りが案内されたのは玄関から柳をはさんで真向かいの部屋だった。きぃと軋んだ音がして、戸が引かれる。雨のせいか湿気が篭っているような気がした。窓は高い位置にあり、それ以外は普通の畳敷きのなにということもない部屋だった。 「それにしてもこんな長雨の時期に、大変だったでしょう」 女将は雨戸のしまっていない飾り窓を見て眉をしかめながらそう言った。窓から雨が部屋に入ってきて、畳をぬらしていた。壁に立てかけてある踏み台をつかって、雨戸をがたりと閉める。薬売りはその様子を見ながら、いえ、と呟いた。 「用事がありましたもんで」 「あら、どんな?」 女将の問いに、薬売りは笑いながら、薬箱を置いた。 「ちょいと、物の怪を」 斬りに、ね 薬箱がかたかたと鳴り、雨は降り続いている。 |
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