樹木子の雨







 土ぼこりで絡みつく喉で、妙に乾いた咳をした。日の光の下で生白く頼りなげに見える掌をゆるく握って口元に当てる。はたとこの動作は一体何のためにするのだろうと考えた。けほりともう一度咳をしながら、握った掌を開いては閉じる。伸びた爪は藤紫で妙な具合に日光を反射している。目が痛い。疲れているな、と他人事のように思って薬入れを道の端に置いた。踏み固められたあぜ道の隅、側には川が流れている。寄りかかるものもなくぼんやりとしていたら、薬入れのそばからするりと芽が出てきた。
「おや」
 真っ青な芽だったので、あざ道の中でも一際目立っていた。それは産毛をまとわせながら双葉を開き、あっというまに本葉を茂らせて、苗になった。硬質で、硝子のように苗の中で光が反射を繰り返している。薬売りの頬に、木漏れ日のような小さな青い光がいくつかきらめいて、ひらりひらりと移動した。
 薬売りは笑って、自分の指で頬を辿って、光を掴む。左手にはいつの間にか匕首のような長さの刀が握られていた。光は白い指先に挟まれて実体なく散った。さんざめいた光は苗の下に戻り、苗はぐんと伸びた。樹皮が出来、薬入れを追い越し、葉を茂らせて、やがて大きな木になった。日の光は樹木を照らし、地面に大きな青い影を作った。海のような影は地面をさらさらとうねり、木の葉の間からは白い光が覗いている。まるで海原のようであった。
 薬売りはその様子を薬入れにもたれかかりながら、じっと見ていた。紅のひいてある口元は彼の表情を微笑に見せている。薬売りはふと刀をはなした。重力にしたがって刀は手から離れ、着物のすそを滑り降り、あぜ道にことんと落ちた。影はゆるりとうなって、刀を飲み込んでいく。刀は口を開けて、飲み込まれまいとしているように見えた。薬売りはそれを見て、笑っているばかりだった。
「子供のいたずら」
 のようだ、と彼は一人呟いた。刀はやがて地面に飲み込まれ、そこからじわりと血のように赤い色が影に滲んだ。じわじわ、じわじわと影を赤く染めて、それはやがて薬売りのそばにまで及ぶ。
 のどの渇きを感じなくなっている。
 振り返ると、樹木が赤くそまっている。木の中心には刀が口を閉じて納まっている。そこから水に混じる血のように朱が渦を巻いていた。さらさらと耳を打つ音は涼しげだ。薬売りはゆるやかな、いっそけだるげに見える動作で立ち上がって、囁いた。
「何の意味もない」
 掌を樹木に向けて差し出す。日の光は樹木を透けて、まだらの影を薬売りの顔に投げかける。
「おいで」
 刀はかっと口を開き、木の中心でがたりがたりと暴れだした。樹木の中で青と赤は波紋を描いて、いっそう赤くなっていく。やがて小さな砕ける音が聞こえて、樹木を食い破り、刀は薬売りの掌に収まった。
「樹木子」
 かちんと刀が歯を鳴らす。刀が食い破った穴から何かがあふれ出す。ざあざあと音をたて、樹木の根元にわだかまる。やがてそれはうねりひとつの女の形となった。首の長い、水分のおおそうな、うすい女の形だった。女は青い樹木によりかかり、透けた日の光を受けて、菫の着物をきた女になった。目じりに紅を差したひどく美しい姿をしている。
 女は口を開いて、しばし沈黙した。全てを吐き出してなお青い樹を白い手で撫でた。
「喉が乾いているでしょう」
 すっと、女は薬売りにしなだれかかる。彼は目を眇めて、女を見下ろしている。女は着物をすそを揺らめかせて、小さな指を薬売りの口に差し込んだ。歯に人差し指の爪があたる。桜色の、綺麗な爪だった。
「水が」
 女はそこまでいって、何か衝撃を受けたように飛ばされた。かけた樹木の穴に背中を打ちつけて、うめき声をもらす。
「生憎、体は貸せませんで」
 薬売りの言葉に女は瞠目し、そうして笑い出した。喉の奥から漏れる妖しげな囁きはやがて大きくなり、青い木の葉をゆらゆらとゆらした。地面の影は青いものに戻り、女の影の部分だけ真っ赤に染まっている。
「やさしい、あやかしでございました」
 女は細い腕を上げるのを見て、薬売りも右手をゆるりと遊ばせた。百群の袖から札が現れる。女の後ろに聳え立つ樹木がざわざわとうなる。
「辻斬りに会い、打ち捨てられた私の骸に慈悲など差し出すものでしたので」
 札は薬売りの遊ぶ右手にあわせて渦を描いて、木の枝を打ち払う。その度に枝は先から割れて、木は葉を散らせてさびしくなっていった。
「恨みの念で根元から侵してしまいました」
 やがて樹木は枯れ木のようになった。やせ細った枝は先から自壊して、女の足元に積もる。女の足元には青い光の山が出来、まるで女と樹木が一つのものだと思わせた。
「やさしい」
 薬売りがぽつりと呟いた。女はその声を聞いて、口の端を引き上げて、猫のように笑って応えた。
「あやかしでございました」
 かちん、と歯を打ち合わせる音がした。
 女の赤い影が樹木の影と交わって、ゆらりと滲む。けして色が合わさる事もなく、ただ青い海原のような影を濁った影が貪り食らう。それはあぜ道を広がり、土をおかし、田の中では幾本もの刀を握った腕が、稲穂のように揺れていた。
「しかし」
 薬売りは笑む。
「あなたを斬った武士など、もうとうに」
 死んでいる。
 稲穂の手がざわざわと風になびく。断末魔の悲鳴が聞こえ、女は顔をゆがめて、いいえ、と呟いた。いいえ、まだ。
「まだ殺していない。まだ死んでいない」
 断末魔がぴたりと止んだ。札は目を見開いたまま、薬売りの足元に力なく落ちている。刀が口をあけて、女を見つめている。薬売りは笑っている。女は腕を振り上げる。菫の袖から覗く腕の、のたうつ刀傷が見えた。薬売りの左手に握られた刀が鳴る。
「剣を」
 女の足元に積もる光は優しくさんざめいている。

 空気を震わせていた声の残滓は消え去った。ごうごうと耳の側で風のうなる音がした。目を上げるとそこには樹木に寄りかかり、背中から斬られた女がいた。
「ほんにやさしい」
 女は乾いた咳をしながら囁いた。
 葉の落ちきった樹木はもう土に海原のような影が落とすこともなく、女の影は赤くはない。
「あやかしでございますね」
 二つの影は溶けきってやがて薄らいだ。

 乾いた咳をして瞼を開ける。田畑には誰もおらず、ただ案山子だけが太陽の光にめげずに立っている。背の高い木などないあぜ道で日の光にやかれていたのだから喉も渇く、とぼんやり思って、掌で喉をさすった。薬入れにもたれかけていた体を起こして、ゆるやかな動作で薬箱を担ぐ。
「ほう」
 薬売りがふと空を見上げるとぽつりと頬を雨が叩いた。空は晴れているが、地面をたたく水音の間隔がだんだんと短くなっている。降る雨粒は、日の光をうけて青く輝いていた。




樹木子/じゅぼっこ