夜叉







 畳の上に無造作に置かれた刀が小刻みに震えていた。鍔鳴りのような高い音をきりきりと部屋に響かせている。きり、きり、きり、きり。柄の終わりについている鬼のような面の口が何かを飲み込もうとするように牙をむいている。そばには臙脂の薬箱が置いてあった。金色の線でなにやら面妖な紋が書かれていて、それはともすれば目にも見えた。
 薬箱の前には男が一人座って目を閉じていた。薬箱は男のもののようで、とすれば男は薬売りなのだろう。雨戸を閉め忘れているのか、飾り窓の向こうから雨が見える。ぱたん、ぱたんと地面に落ちては部屋の温度を下げた。雨がどこかを叩くたびに、刀はきりと鳴る。ぱたん、ぱたん。きり、きり。ぱたん、ぱたん。きり、きり。ぱた、ぱた、ぱたぱた。きりきりきりきり。
 薬売りはゆっくりと瞼を上げて、刀の上に手を置いた。薬売りの口が動き、刀はよりいっそう震える。薬売りはふと顔を上げた。雨音にまじって足音が聞こえる。部屋は静かだが、牡丹のふすまの向こうから遠い悲鳴ともどかしげな足音が聞こえ、段々近くなっていく。
 ふすまの前に一列に並んだ天秤が、ゆるゆると傾こうとしている。
 りん
 鈴音がなるのと、ふすまが開け放たれて人々が転がり込んでくるのは同時だった。宿の女将と番頭、客が一人、二人、泡を食って逃げ込んできた。天秤は蹴散らされる前にふわりと浮いて薬売りの足元に戻る。
「あんた、どうしてここに!」
 女将は薬売りをみて叫んだ。驚愕に見開かれた瞳に薬売りは静かに笑う。無限に続くように思えるふすまの向こうから、紺青の髪を振り乱した何かが恐ろしい悲鳴を上げながらやってきていた。刀から発せられる高い音は、もはや絶え間ない。きりきりきりきり。
 薬売りはいつの間にか手に刀を握っていた。もう片方の袖からなにやら紙を取り出すと、それは瞬く間に四方のふすまへと張られていく。文字が浮かびあがり、薬箱とおなじ紋が現れ、ぎょろりと一斉にうごめいた。悲鳴は近づいてくる。あと一間、髪がのび、女将を引きずり出す寸前ふすまはしまった。
「ひっ」
 どぅん、と何か大きなものにぶつかれたように、ふすまは歪み、たわんで、破れてしまわないのが不思議なほどに形を変えている。牡丹の花は物の怪の目のようにこちらに突き出している。呼応するように、刀は鳴る。
「夜叉」
 薬売りがぽつりと呟くと、ふいに刀は鳴るのをやめた。むき出した牙をあわせる。
 かちん
 音は、悲鳴とふすまの軋む音の乱反射する部屋の中で奇妙に響いた。
「形、得たり」
 薬売りはゆっくりと部屋を見渡した。床には女将と番頭、客の男と女が恐怖に打ち震えおびえて伏していた。薬売りは今や、ならない刀を掲げで言う。
「退魔の剣を抜くためには」
 ざぁ、と部屋中に張られた札の色が黒から赤へとめざましく変わる。一面が赤から黒へと、もう一面が黒から赤へと。札にかかれた紋がぐるぐると視線を変える。まるで物の怪がこの部屋の周りを回っているように。
「形と、真と、理が必要です」
 ぱたん、と雨の落ちる音がした。飾り窓の向こうで雨が相変わらず降っている。ゆらりと、紺青の髪の一房が見える。雨を掬い取り、丸まって膨れる。それを見た女が頭を抱えて悲鳴を上げる。
「皆々様の真」
 札がばちりと、飾り窓の枠に張られる。紺青ははじかれて転がる。
「お聞かせ 願いたく候」
 番頭が抜けた腰のまま薬売りからずるりと引き下がる。引き下がった先のふすまに張られた札の色が変わるのに悲鳴を上げて、またずるずると移動する。
「あ、あんた一体何者だい」
 男が震えた声で言った。薬売りは顔をあげて、呟く。
「ただの」
 飾り窓の向こう、ぱたんと雨の音。雷雲が近づいてくる。ぐるぐるとうなる声が聞こえる。
「薬売り、ですよ」






薬売りにはきゅんとする。別に話の展開とかは考えてないです。
「お聞かせ〜」と「ただの、薬売り、ですよ」といわせたかっただけ。