死んだものを思い返すとき、新条にとってその記憶は物の名前と同じ重さしかもっていない。人間も辿れば物である以上はそれほど間違ってはいないのだろうけれど、思い返す物が将校や、あるいは部下でも、それはただの記憶に過ぎない。
新条は今まで自分の下で死んだものの名前をあらかた覚えているし、名前を諳んじる事も出来る。さすがに殺した者までは覚えきれるものではないが、自分の部下で、なおかつ自分の失態で死んでしまった人間ならば大抵は覚えている。もっともこれには新条が、今まで自分の失態で部下を死なせてしまった事が極端にすくない事に起因しているのだろう。(彼は自分が兵を死なせない事にかけて多少の誇りを持っていたのだ) だが、それもただの自惚れにすぎなかったな、と新条は雪原を踏みしめながら思う。ざく、ざくと小気味いい音にあわせて、死んでしまった部下の名を列挙している。それはただの文字で、何がしかの感情を新条に与えるものではなかった。横に並んで行儀よく歩く新条の愛猫が死んでしまったらきっと彼は痛みとともにその名を思うだろうけれども、現実死んでいないのだからそのような事は思っていても仕方がない。 行軍距離はどれほどか、何処に向かって進んでいるか、すでに何刻歩き通しか、理性では理解できるものの、実感は出来ない。それもすべてあがりかけて沈まぬ太陽のせいだ。真っ白な雪原をほのかに赤く染める太陽は地平線ぎりぎりに居座って、場所だけをゆるゆると変えている。のぼりはしないし、その代わり沈みもしない。 まるで夢のようだ、と新条は思う。しかもこれはじわりと恐怖に陥りそうな悪夢の類だな、とも。 自分の歩幅はだいたい二尺、何歩歩いただろうという馬鹿らしい計算は名前で数えていた。新条は、死んでしまった兵士を悼まない。記憶にはとどめるが許しを乞う訳でもない。死んでいったものよりも今生きている者の事を考えるほうが効率的だからだ。今率いている六百人あまりを、死んでしまった人間の為におろそかにするなど阿呆のする事だ。 死んでいる人間は、死んでいるから、誰の事も救いはしない。 西田の名前を脳裏に浮かべるたびに新条は多少の辟易を覚える。全く西田は愛嬌のある整った顔立ちで、人間関係をそつなくこなす男だった。彼の猫は綺麗に刈られた毛並みが清潔で、なるほど主人とよく似ていた。最後に見た姿も、色男がやると敬礼も軍服も決まるものだと改めて思ったものだ。三十人足らずで足止めなど、僕はごめんだとも思った。 新条は西田の名前を列挙するごとに辟易を覚える。なんの感情も伴わない(それは死に対する感情を伴わないと言う意味だ。痛みも苦しみも悔しさも悲しみも伴わない)事実ばかりが次々と脳裏に浮かび、その度に数歩数え忘れる。 まるで悪夢だ。現実感がない。いや、もとからどこにもそんなものはない、おそらく。三十人足らずで足止めなど僕はごめんだ。けれど六百人足らずで大隊を足止めするのもさして違わないだろう。 全くそんな事に思いを馳せるほど今は暇ではない。けれど西田の名は新条にそれを思い出させる。沈まぬ太陽が照らす雪原で、新条は西田の名を思い浮かべる。死んでいった一人の、なんの感情も伴わない兵士の名として。死として思い浮かべる。 やれる事はそれだけなのだ。死んだ人間は死んだゆえに、誰も救わない。 ふと振り返ればどこまでも開けた草原が続いている。森に、木立にまぎれよう、そうしないと死んでしまうだろう、と新条は思った。 |