死者





 どうして先輩は死なないのだろう。
 
 と西田は思う

 たとえば銃弾が掠れていったり、空から爆弾を落とされたり、振り下ろされる刀のきらめきを見ながら西田は思う。彼を矛盾の盾のように守る猫は、本当に堅固で屈強に見えるけれど、その実は柔らかい肉であるはずだ。銃弾は通過するし、爆撃にあえば焼け焦げ、振り下ろされる刀は猫の肉を裂くだろう。(もっともその前に猫の牙でやられている場合も多々あるわけだが。)
 あとたった数瞬しゃがむのが遅かったら、あとたった数寸立ち位置がずれていたら、彼だって彼の猫同様あっさり死ぬに違いないのだ。なのに彼は死なない。
たとえば西田がその手で新条をふと引きとめていればそれにより側頭部を貫かれて彼はあっさりと死ぬに違いないのに。
 けれど西田の手は新条に触れない。
 触れることが出来ない。
 
 時間を稼ぐために捨て駒となり、死ねと要約すればそのような命令に西田が従ったのは、決してそれが有益だからではなかった。むしろただの無駄であろう。無駄な知らせの余計な襲撃、を避けるための無駄な時間稼ぎだ。
 それでもその命令を聞いたのは、上官を信じていたわけでも、仲間を逃がすためでもなくただの命令だったからだ。どのような命令をもすぐに理解し、実行できるように西田は新条に叩き込まれたし、また自らも率先して叩き込んだ。それだけの成果だった。
 死において得られる名誉も、自殺者の高揚もなかった。西田は自分は新条についで生き汚いのだと自負していた。決して名誉の戦死を受け入れるような立派な人格者ではなかった。だから自分が死ぬのは、生きようとあがき、這い蹲り、それでも光の見えるほうに進み、そして無様に死ぬのだとそう思っていた。
 けれどそれはどうやら違うらしい、と西田は笑った。なんと言ったって自分はこれから、どうやら無駄な名誉の戦死を遂げるらしいのだから。もしかしたら生きて返れるかもしれないが、その可能性も絶望的だ。霞む視界に笑い出したくなる。
 叶うことがないのなら
 叶う事もないのなら自分よりはるかに生き汚い新条を西田は思いたかった。そして彼に生き抜いてほしかった。命を、国を、背負い生きて欲しかった。彼ならばその恐るべき自虐を持って、全てをなしえるだろう。名誉をもって自虐とし、地位を持って自虐とし、敗北をもって自虐とし、勝利を持って自虐とするだろう。英雄と叫ばれる自分を恥じ、そしてそんな自分をさげすみ、さげすんだ事を恥じ、恥じた事さえ恥じるだろう。
 彼ならばそのような袋小路に陥るだろう。
 そうしてそれでも暴走するままに皇国を救うだろう。

 彼を救うのならそれは殺すしかないのかもしれない、と西田は常々思っていた。彼の人間とは思えない生き汚さを(彼は殺されるとなるならば、自分の全てをもってして抗うだろう。時にはそれを受け入れたふりさえして、自分を殺そうとするものを殺しにかかるだろう)全てねじ伏せ殺すしかないのかもしれない。
 そして何故だか西田は、それを行うのは自分のような気がしていたのだ。けれど違った。それは違ったのだ。あぁ、視界が滲む滲む。

 西田は死後の世界なんてものを信じてはいなかったのだが、どうやらそれは違うらしかった。西田は死んで、そして新条を見ていた。新条はやはり西田の想像通り想像を絶する自虐を持って事を進める。的確に、出来る範囲で。それが滑らかに流れれば流れるほど西田は思う。
 どうして、先輩は死なないのだろう、と。
 銃弾は彼をかすめ、爆撃は彼の頭上から降り折り、刀は彼に向かって振り下ろされる。あと数瞬なのに。あと数寸なのに。自分の触れられない手が、もしも新条を振り向かせる事が出来たなら、彼はきっと死ぬだろうに。猫は柔らかいはずなのに。彼も柔らかいはずなのに。すぐに死んでしまう肉袋なのに。彼の周りは敵も味方も死んでいくのに。
 どうして彼は死なないのだろうと、西田は新条の首に手を回し、頚動脈の場所を目で確かめ、押さえようとする。けれど手に伝わる感触は微塵もない。時折何かに感づいたように千早と目があうけれど、笑い返しても何が起こるわけではない。
 どうして先輩はしなないのだろう。
 西田は新条を救うには、彼を殺すしかないのだと思った。彼の全てを挫いて捻じ伏せ殺すしかないのだと思っていた。そうしてそれをするのは自分だと思っていた。なぜだか。