祝日譚





 せんせーさよなら、あいちゃんばいばい、子供達が思い思いのさよならをしているのを身ながら男は笑って手を振っていた。あら、ありがとう、まきちゃん!とか、そういう言葉が玄関先で溢れている。日も長くなってきた五月、まだまだ明るい午後五時に保育園の玄関先は母親や子供でごったがえしている。さくらんぼのシールが貼ってある靴箱から女の子がピンク色の靴を取り出している。まだ迎えが来ていないその子に男は声をかける。
「どうしたの?お迎えはまだだよ。」
 年中くらいの少女は酷くさめた目で男の顔を見て、ため息をついた。ため息をついて暗い声で、でもかえる、と言った。その手には真っ白な花がある。
 男は少女の様子を見て、外で遊びながらお迎えを待ったらどうかな、と答えた。少女は面白くなさそうに、それでもそのまま帰る気は失せたらしく、玄関先から見える遊び場で一人遊ぶ事にしたようだった。
 石の小さな滑り台、危ないからと普段は取り外しているブランコは今日もその通りになっていて、大人の頭の高さくらいのオレンジの棒から寂しげに鎖が中途半端に伸びている。砂場にはすでに青いビニールシートがかぶせてあったので、少女はピンクの靴と花と小さな肩掛け鞄のままで、広場の端から端へと走るでもなく歩いていた。
 幾組もの親子が少女の前を通り過ぎては、少女に挨拶をしていた。少女は満面の笑顔でばいばい、また明日!と元気良く答えては、また冷えた目に戻っていた。それは表面上だけ明るい演技をしているのではなくて、友達と遊んでいるときだけが楽しくて、あとは全部つまらないのでそうなってしまうような感じだった。男は、ありがとう、けいくん、とか、お母さん、嬉しいとか、子供のやたらと嬉しそうな笑い声、を聞きながら、母親の笑顔、あの子が許せないのはこんなものなんだろうなぁ、と思った。子供ゆえの短絡さで(それは純粋さ、ともとれるのだけれど)母親と子供の声が乱反射する玄関に一人花をもって、かえる、と言ったことを男は考えた。二十分もしないうちに保育園の殆どの子供は帰り、迎えの来ない数人だけが部屋に残っていた。広場に目をやれば、陽はおちていなく、少女はつまらなそうに滑り台に上って滑ってを規則的に繰り返していた。
 ボールを出してあげようかな、と男は思った。保育士は何人もいることだし、自分ひとりが子供と一緒に遊んでいたからといってとがめられる事もないだろう。というよりもむしろそれが男の仕事であるのだから。
 そうしよう、と思ってボールを取りに立ち上がり、足元に落としていた目線を広場に戻すと、少女は少女よりも年上のすこしばかり背の高い少年と遊んでいた。遊んでいた、というよりも話していたというほうが適当かもしれない。
 少年がいくつかどうかは遠目にはわからなかったのだが、とりあえず園児ではないと知れた。というのも少年が着ている服が学童服のそれだったからである。茶色じみて色素の抜けた髪は、少年の子供らしからぬ顔色の白さと相俟って、彼を不健康に見せていた。陽の光の下でそれはいっそう顕著だった。
 かけよろうと思ったところで少女に迎えが来た。背広を着た父親が少女の手を取った。玄関から出ようとしたところを父親も認めたらしくお辞儀をして少女と帰っていった。少女は少年に向けてなのか、男に向けてなのか曖昧に手を振った後でやはり面白くなさそうに歩いていった。
 少年に注意をしようと男は少年に向かって歩いていった。少年は滑り台に寄りかかりながら白い花を一輪もっていた。少女が持っていた花だ。少年に向かって声を発しようと思ったその瞬間、はかったように少年はこちらを向いた。
 「今日、は母の日、ですねぇ」
 まるで日本語を喋りなれていないかのようなぎこちなさだった。男は少年の問いかけに、反射的に頷く。玄関先の弾んだ声は全て、幼児がつくった花束を待ちきれずに母親に渡したときの声だった。少年は近くで見ても生気が無い。色が抜けているからでは説明しがたかった。色素の抜けた髪は前髪ばかりが鬱陶しげに伸びて、表情が伺えなかった。
 「花を貰ったんですが」
 誰からか、と男は聞かなかった。そんなものはもうとっくにわかっていた。色紙で作った花は、赤白黄色、ピンクにオレンジ、選んで良いよといっていたのだが、どういうイメージがあるのか殆どの子が赤を選んで作っていた。赤を基調に好きな色を混ぜて、という風に。
 あの少女はかたくなに白を選んでは花束を作っていた。白を選ぶこと自体に辟易しているのに選ばずにおれないようにさえ男には思えた。もちろんそんなものはただの錯覚であって、少女としては不精不精作っていたのだろう。
 「父さんが悲しむので、祝えないんですよね、母の日」
 紙で作ったへろへろの白い花を握り締めて少年は広場を見渡していた。まるで幼い頃のおぼろげな記憶を探しているようだった。
 「お母さんいないの?」
 「生まれる前に死にました」
 端的な言葉が男に理解を遅らせた。
 「でも、今父さん、温泉旅行でいないので」
 祝ってみようと思います、そういって少年は男の視界から消えた。赤い鼻緒の下駄が目について、男はようやくおかしいと思えた。日の長い五月は、いまだ陽光を地上に注いでいる。かぁーとカラスの声がして、気がつくと玄関先に座り込んでいた。玄関のドアのガラス越しに夜の暗闇が見えた。