あの日神社で





 会社帰りの珍しく定時にあがった帰路で、公園を見かけた。公園というよりそれは神社の境内の片隅にまるで場違いのように佇んでいる多少の遊具と、砂場くらいしかないみすぼらしい広場だ。夕闇に押されて空気はすすけたように暗い。
 きゃあきゃあと子供の甲高い声が境内にうそ寒くこだましている。まばらに生えた樹木の陰にちらほらと子供の生白く細い足が見える。
 またね、ゆうくん、またあした、さんじにじんじゃのとりいのまえで、ぜったいやくそくやぶらないでね、かあさんとこにはなもって、むかえにいくのよ、ぜったいよ
 「絶対よ、ゆう君」
 赤いジャンパースカートを翻しておかっぱ頭の子供が言う。ぱたぱたとスカートと揃いの古びた赤い紐靴は懐かしさを覚えるほどに古めかしい。それでもあの頃は紐靴が酷くうらやましくて。
 …あの頃とはいつだっただろう、と私は考える
 雲の多い空は沈みかける夕焼けの光を受けて真っ赤に染まっている。東の空はすでに紫色にそまった青を引き連れて、夜を流しに来ている。ブランコの鎖がきぃと鳴る。子供は生白い足に下駄をはいてかたかたと音を立てながら一人、二人と帰っていく。鼻緒は絞りや花柄の散ったものや、小紋など、一人一人と違うものだ。
 きゃあきゃあと少女の声は数え唄を歌っている。
 一列談判破裂して 日露戦争始まった さっさと逃げるはロシアの兵
 きぃ、とまたブランコの鎖が引き連れる音がする。耳の鼓膜を引っかいてざわりと衝動をつれてくる。その衝動は下腹の辺りでたまって今すぐにでも引き返して家にこもりたいような、子供と一緒に遊びたいような、そんな疎外感にも似た気持ちだった。
 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し
 神社は石段を十数段と上った所にあってぽっかりと空いた社の中では鈍く金色の光が見える。でもそれは記憶の中ではおぼろで壁だったのか像だったのかさえはっきりしていなかった。鬼ごっこ、かくれんぼ、輪回し、竹馬、さきちゃん、さきちゃん、待ってよぅ。
 七月八日の戦いは ハルピンまでも攻め入って クロパトキンの首を取り
 赤いジャンパスカートを翻しておかっぱ頭の子供が言う。スカートと揃いの赤い紐靴が子供心にうらやましくて、三軒向こうの角曲がり、大きな御門の咲ちゃんち。
 東郷元帥ばんばんざーい
 ぱた、と紐靴が目の前で止まった。薄汚れたゴムボールがぽんと私の大きな革靴の間に転がってきた。拾い上げてみれば、肩で切りそろえられた真っ黒の髪の、可愛い小さな口の、真っ白なブラウスを着て白い花束抱えた、咲ちゃんが笑っていた。
 「ゆうくん、ひどいわ、あの日、約束したでしょう?」
 さんじに神社の鳥居の前で、かあさんとこに花もって、迎えに行くのよ、絶対よ
 少女の口から漏れ出る声は、さび付いたベーゴマのようにぎこちない。うずもれた記憶の中でほこりにまみれて再生など不可能になってしまったかのようにあちこち欠けている。白目のない真っ黒な眼球でこちらをじっと見ている。
 でも咲ちゃん、でも咲ちゃん
 「かあさんなんていなかったよ」
 養父さん、ひどいの、ひどいのよ、と神社の境内で咲ちゃんは時々泣いていた。真夜中、のっそりやってきて、お前は良い子だ、可愛い子、大きなその手でゆっくりと、釦をはずしてしまうから。
 「ゆうくん だからいきましょよ 神社の裏の石塔で 待っているのよ かあさんは」
 ぎぃ、とブランコのきしむ音。咲ちゃんのブラウスに包まれたひょろひょろした腕は見た目に似合わぬ強さで腕を引く。咲ちゃんの指と指の間のスーツがあまりの力の強さからきりきりとなっている。父さんが話してたよ、咲ちゃん。
 ゆう、あの子はかわいそうな子なんだ。母親が男と心中してしまったんだ。あの子を捨てて、死んでしまったんだ。口が勝手に開いて言う。あの時と同じ台詞をぺらぺらと並べ立てる。
 「ちがう、僕は咲ちゃんと違う。僕の母さんは空襲で死んだんだ。心中なんかじゃない。」
 ふっと細い小さな可愛い指が緩んで、咲ちゃんは真っ黒な、黒目しかない瞳を見開いて、人形のようにかくっと首を横に異常なほどにかしげた。それはかしげた、というよりも、折ったという表現のほうがしっくりときそうだった。首の付け根の皮膚が引っ張られすぎてすこし裂けていた。
 小さな口をゆっくり開いて、咲ちゃんは言った。いつの間にか顔は上半分闇に呑まれていた。それはさびた鉄を引っかいたようなぎりぎりとした声。
 「だから 今 行くんじゃないの」
 ぐいぐいと引っ張られる腕は、足をもつれさせる。子供とは思えない力で咲ちゃんは神社の裏へと私を連れて行く。片手には花束を抱えているから私を引っ張っているのはほんの片腕なのに、石段をすぎ、砂場を横目に、ずるずると引っ張られる。ブランコに座っている子供がいる。下駄を履いて、赤い鼻緒の男の子だ。ぎぃとブランコがきしむ。
 「祐君は 知らないでしょう さみしかったんだから さみしかったんだから 縄が痛くて苦しくて ずっと待ってたのよ 待ってたのよ 待ってたのよ」
 待ってたのよ、と繰り返す、さびた鉄の声。鳥居の向こうの通りは夕日で真っ赤だというのに、神社の境内は半ば闇に沈んでいた。もうすでに闇にまぎれて少女の瞳は見つけられない。
 「うるさいなぁ」
 男の子の声と同時に咲ちゃんの首にロープのような物がかかる。声も出さずに咲ちゃんは片腕を離してブランコの安全柵に背を打った。
 「勝手に恨むんじゃないよ、自分で決めたんだろう」
 青い、古びた学童服に、些かセンスを疑わざるを得ない黄色と黒のちゃんこちゃんこ、栗色の髪はうっとおしげに長く伸ばされ左目は見えない。ただこちらを覗き込むような右目は見開かれて気味が悪い。
 「うるさい!お前にわかるものか」
 少年が何も答えずに力をこめてロープを引けば、咲ちゃんはずるずると地面を引きずられて悲鳴を上げている。声は鼓膜をひっかいて、思わず耳を塞いで座り込みたくなってしまう。
 「いやだ、くるしいよ、かあさんたすけてよ」
 たすけてよ、どうしてたすけてくれないの、たすけてたすけて、黒目ばかりの気味の悪い目に涙を溜めて繰り返す咲ちゃんに少年は力を緩めるでもなくただロープを締め上げ続けている。咲ちゃんを見下ろす目は冷えて、どちらが化け物なのかわかったものではなかった。それとも私が異世界へ入り込んでしまったのか。
 わたしをおいていかないで、たすけてよ、たすけてよ、たすけてよ、かあさん、どうしてあの日、おいていったの
 真っ黒などこを見ているかわからない目が私をはっきりと見据えたのがわかった。涙を溜めるその顔はキリンに似ていた。花束を抱えている手を伸ばして私を見る。途端、眉間に皺がより、口はばきばきと耳まで裂けて、黄ばんだ歯はきりっと鳴りながら鋭くなっていく。
 「おまえのせいで」
 歯みたいにするどい声だった。
 ぱぁん、と音がして咲ちゃんは霧散した。まるで時間を薪戻すように夜が地平線から引き上げて太陽が戻ってくる。気がつけばいつもの路地でぼんやりしていた。五時を知らせる音楽がスピーカー越しにこだましている。
 足元に一束、なでしこに似た花が落ちていた。真っ白なそれは半ば朽ちかけている。

 咲ちゃんは石塔の側の木で首をつって死んでいたのを私は思い出した。

 「気にしない方がいいですよ」
 突然の声に驚いて花束に落としていた目線をあげると目の前に少年がいた。鬱陶しげに栗色の髪を伸ばした、右目しか見えない少年だ。にっこりと笑ったその笑顔はいかにも明るくそらぞらしかった。うそ寒いものが今更背筋を駆け上る。
 「どうせすぐ忘れるでしょう?」
 あなたは、と少年は花束を私の手から取り上げて言った。少年は花束を手に持って、数え歌を歌いながら私に背を向けて歩き出す。
 一列談判破裂して 日露戦争はじまった さっさと逃げるはロシアの兵
 少年は私の事などまるでもう忘れたかのように一人でゆっくりと歩いて路地を曲がる。
 「ま、待ってく…」
 はっと、気づいて走って路地へ向かうと、そこには夕闇に呑まれかけたいつもの路地があるだけだった。東から夜を引き連れて群青が降りてくる。
 東郷元帥ばんばんざぁい
 どこからか聞こえてくる少年の声を掻き消すように、街灯が瞬いて道を照らした。