がやがやと喧騒がうるさい通りが目に入る。飲み屋のちょうちんの赤やピンク色のネオンがちかちかと薄闇の中瞬いている。九十分で三本ぽっきりだなんて、黒く躍る文字が紫色に照らされて、てらてらてらてら。人間の欲望は限りない。静かに暮らしたいというこれも欲望といえば欲望かもなぁ。静かで、切実な欲望は願いに似てる。でも欲望だ。暗闇で安住したい。どろりとした暗闇はもう死に絶えて、今あるのはいやに粘度の低いさらさらした暗がりだけだ。一歩入っても、全速力で走り抜ければ生きて帰れそうな薄闇。 そんなものじゃあないんだよ、住んでいたところは。僕はよく知らないんだけどね、夏の湿った暗がりのさ、どろりとした感触っていうのは住み心地が大層良いって聞いたよ。膨張した空気がね、粘っこく首筋を撫でるんだよ。わきの下が汗で湿るほど暑いのに、首筋からまっすぐに寒気がぞくぞく上ってきたりしてね。風で揺らされた下草がそろりと足首を撫でる冷たさが際立ったものさ、という噂。 まぁ、知らないんだけど。 コンクリートは冷たくて固い。吹き抜ける風は湿気の伴ったいやらしい風じゃなくてエアコンの排気口から吹き出るただの熱風だ。薄闇の暗がりの路地でいきりたった男が怒鳴っている。 なんだおまえこんな時間にかねでも持ってるのかい子供がこんなじかんにであるいてたらおうちに帰れなくなっちゃうぜ、まぁもうおそいがな。かねもねぇかしけたもんだ。げたなんかはいて、いったいなんのまねなんだい、おい、きいてるのかよ、おい、おい、こっちをみるんじゃねぇよ。そのめがむかつくんだよ、こわがるくらいがかわいいもんだ 男はピンク色のネオンが指す暗がりの路地で子供を嬲っている。最初は小突く程度だったものが、だんだんと大げさになっていき、やがて蹴りが入るようになる。まだ未就学児かとも判別のつかない子供は簡単に吹っ飛ばされてコンクリートに打ち付けられる。肩がぶつかり、首がしなり、頭を強打する。男はその音に動揺の欠片も見せなかったどころか、その音でさらに興奮していくようだった。 そうだ、そうだ、その目がむかつくんだ。こっちをじっとみやがって、ばかにするな。 首をがっとつかんで持ち上げるといやに軽く持ち上がる。肩全体を押し付けるようにビルの壁に打ち付ける。がつん、ごっ、がっ、と固いものを打ち付ける音がするたびに子供の喉からひゅうひゅうと息が漏れるのがわかる。痛みを堪えているのか、時折足が痙攣している。叩きつけるたびにどこからか、ひゃあ、だとか甲高い声が聞こえる気がした。 ようかいなんかいねぇんだよ、くそ、ばかにするな、ばかにするな 打ち付けるたびにもらしていた小さなうめき声がやがて聞こえなくなったしばらく後も男は子供を壁に打ちつけ続けていた。ばかにするなばかにするな。男はふと空恐ろしくなって手を放す。身体を押さえつけていた力がなくなると重力にしたがって子供の身体はうつぶせの形で倒れふした。栗色の髪の毛が絡まる後頭部は血にまみれてよく見えない。凹んでいるようにも思えるがそれはネオンの影がなす目の錯覚のようにも見えた。殺してしまったかもしれない、と男は一瞬考えたが、こんな場所で子供一人居るほうが悪いのだ、とも開き直って子供の身体を暗がりに押しやった。薄闇はぼんやりと物の形を浮き上がらせて、子供の力を失くした手が何時までも見えた。 これは死んだな、殺してしまったと男は独りごちた。子供の身体は先ほどまでと違ってとても重かったし、あの生意気な目はぼんやりと開いているだけとなった。生きているものと死んでいるものというのは、ぱっと見気づかないが明確に違う。気絶している人間と死んで横たわる人間は存在感が違うのだ。生きている気配と、物の存在感。 男は、人を殴り殺したのは初めてであったが人を殺したのは初めてではなかったのでそれほど動揺せずにすんだ、と信じたかった。子供の目が、意志をもった淀んだ目がこちらをずっと見ているような気がした。あの子供の目はこちらを見つめているときから酷く淀んでいて死人と区別がつかない。だから暗がりの奥で横たわってこちらを見ている目も、意志を持っているのではないかと背筋が冷えた。 見ないで路地を飛び出して、帰るのが正解だ、そうだ、と男は自分に何度も言い聞かせたのだけれども、首は勝手に後ろへと向かった。ピンク色のネオンが射す灰色がかったコンクリート、奥のくらがり、うっすらと見える油のしみのような跡、白く浮かび上がるゴミの上に仰向けでこちらを覗き込む子供。 にごった目がこちらを注視している。栗色の髪の毛は垂れて見開かれた左目から眼球がはみ出ている。手はだらりと身体の両側にたれて、頭のある位置からゴミの上へ、道路へと広がっていく粘度のある液体。まるで暗闇があまりにもさらりとしているから代わりを補うとでもいうようなそれ。 血はじわじわと広がりこちらへと向かってくる。男は平静を装いながらも半ば混乱し、路地を足早に出ようとした所で一人の男とぶつかった。えらく饐えた匂いのする不潔そうな男だった。顔はドブの中で死体は食む鼠に似ている。鼠に似た男はじろじろと男の顔を覗き込んだ後、ふと面白そうに呟いた。 あんた、子供を知らないかい、栗色の髪をして、下駄を履いた子供さ。鬼太郎ってんだ。 男はぐっと声を飲んだ。 子どもかい?そういえば、さっき、あっちのほうをかけていくのを見た気がするなぁ。 男の言葉に、鼠の男はけらけらと軽く笑った。 そうかい、そうかい、わかったよ、あんがとな。それで、質問なんだがね なんだい? その肩の目玉、何の目玉なんだい ぺちゃり、と頬をなでる生暖かさに男は心底恐怖した。男は人を殺した事はあるけれど(そして実際今もやってしまったのだけれど)目玉に頬を撫でられる事は無かった。左目からはみ出していた眼球だろうか。その目玉が想像させたのは、あの子供から流れ出た血液が暗がりを越えを自分をつかむ様だった。 男は一目散に駆け出した。九十分ぽっきり三本、という黒い文字の看板を持つサンドイッチマンを押しのけて、ネオンと赤提灯が乱立する通りを駆け抜けていった。それを笑いながら見ていた鼠の男はけらけらと一際声を上げて、地面にはいつくばっている、男が落とした目玉をつまみ挙げた。 暗がりの路地を覗き込めば、子供は頭を抱えて壁に寄りかかっていた。 「大丈夫かよ、お前としたことがめずらしいなぁ」 「酔っ払った人間だから、と手を出しかねてたらタイミングを逸したんだ」 頭が痛い…と後頭部に手をやれば、ぐんにゃりと赤子の頭蓋の切れ目のような柔らかさがした。数分、男と子供はだんまりとして路地の饐えた匂いをかいでいた。目玉だけが、時折子供を気遣ったが、伸びをして子供は立ち上がった。 「なぁ、ねずみ男、人間を脅かすっていうのが妖怪の本分だよなぁ」 掌の目玉を頭に載せながらからん、と下駄を鳴らして子供は路地を出た。ネオンはゆらゆらと夢のように通りで瞬いている。そんな子供の様子を見て男は、いひひひひひと笑いながら、まぁ、全くなぁ、と同意した。 全く世の中は進歩して、暗がりもなくなってしまいそうだよ。蛍光灯はちかちかと、ネオンはちらちらと、丑三つ時はいつのまにか人間のものになってしまったんだって。妖怪の復讐する暇もありゃしない。妖怪って名乗るからには理由があるのさ、祟りって、ねぇ、昔はいろんな人に効いたそうだけど、今はあまり効かないらしい、という噂。 まぁ、知らないから、僕はやるけどね。 |