てん てん てん 里の真冬も もう開ける お寺じゃ 真っ赤な花が咲く てん てん てん 母を失くした 子が笑う 振り向きゃ 鼠がちぃと鳴く 私は夜の暗がりが嫌いだ。木々の重なった葉の隙間から漏れ出る黒さが嫌いだ。らんらんと寒々しい、白い蛍光灯の輝く部屋の中で、カーテンの隙間から見える夜が嫌いだ。 私は温かいものが好きだ。だから暖房をがんがんと効かせる。私は明るいものが好きだ。だから蛍光灯やオレンジの電灯をいつもつけている。私は賑やかなものが好きだ。だからテレビはいつも画面に笑いを映し出している。げらげらげらげら、げらげらげらげら。 だから私は今の状況がとても嫌いだ。冬の山道を延々と歩いているだなんて。夜の暗闇は濃く、恐ろしく、明るささえ闇の演出にしかならない。ぼんやりと光る光の一寸先はほかよりも暗い影だ。寒さはどこまでもしつこく隙間から入り込もうとし、山は静寂を保っている。聞こえるのは自分の足音と、服のすれる音。服のすれる音はともすれば足音にも聞こえる。すら、すら、すら。重なり合う葉のざわめきが、何かの囁き声に聞こえる。くすくすくすくす、くすくすくすくす。その笑いはテレビから吐き出される無関心の、どこか遠いところから聞こえる笑いではない。こちらをじっと見て、ただ見つめ続け、そしてあざ笑っている笑いのように聞こえる。 くすくすくすくす。 あぁ、何かがこちらを見ている。服のこすれあう、足音が、実体を持ちこちらへと迫ってくる。くすくすくす、すらすらすら。 誰が迫ってくるのだ。あいつか、あいつか、あいつか。私が殺したあいつか。虚ろな眼窩、真っ白な肌、薄く色あせた唇に、細い首はまるで直角定規のように曲がっている。小学校の授業で教師が使うあの木組みの大きな定規。あれで同輩を殴ったときは流れ出た血に混乱したのを覚えている。 あいつの首はまるで直角定規のように曲がっていた。違うんだ、殺すつもりは無かったんだ。かってよろけたんだ、それに乗っかって殴り続けただけだ。曲がっていたのは首だっただろうか。もしかしたら顔がぐちゃぐちゃだったのかもしれない。自分の膝は痛いし、顔に向かって幾度も叩き込んだのを覚えているから。最初はがつ、がつ、とまるで固いものを叩くような音がして、それが次第にごりと、柔らかいものを押しつぶすような音になり、やがてぐちゃぐちゃとかき回す音になった。 血の匂いはどうしてあんなに喉に来るんだ。汚いし、落ちにくいし、厄介だし、何よりそれが自分にも流れているのだという事が我慢ならない。あいつはどうしてひゅるりと消えなかったのか。無関心な笑いではないのか。どうして私は身体を持っているのか。それを捨てられないのか。食い、出し、代謝し、生きなければならない泥臭さ、血の赤さは貪欲さだ。貪欲さには我慢がならない。 あいつが、あいつが、あいつが、悪いんだ。悪いんだ。貪欲なのは私か。生きていかねばならぬのはどうしてだ。生きていたくない、泥臭くなどなりたくない。霞を食い、天上で暮らしたい。 では死ね。お前が死んだとて、天上にいけるはずも無い。暗く湿って冷たい土の中で泥にまみれて死ぬがいい。死ね。死ね。くすくす、すらすら、いやだぁ、いやだあ、死にたくないよ。 あいつが、追ってくるよ。すらすらと追ってくるよ。葉の間から捕まえに来るよ。暗闇から、黒い影から、光の向こうから手が伸びてくるよ、あいつが、あいつが、あいつが、あいつが。 …じゃ…なが…さく……りむきゃ……ないて… ぎくり、と私は身をちぢ込ませる。切れ切れに乱れて錯乱寸前だった思考は恐怖によって唐突に統率されたものになった。こんな真夜中の山奥に一体誰が居るというのだろう。進みたくは無い、しかしもう戻れはしない。パトカーの爛々とした赤いランプが目の中でちらついている。 ふらふらと山を登る。声のするほうへ、向かいたくはないのに道は自然とそこに続いている。戻れないのだ、進むしかない。懐中電灯の光は酷く頼りなく暗闇は襲いくるばかりだ。 …まの…がり その影で 汚い鼠が ちぃと鳴く 童謡がはっきりと聞こえ始めた頃、朽ちた古寺が目に入った。階段さえも腐って抜け落ち、元々不気味なのだろう雰囲気が強調されているのがわかった。ぼこり、ぼこりと、石畳が割れ、まだらの土がむき出しの境内に子供が一人たっていた。童謡の声が子供じみていた事から、誰かがいるのはわかっていたのだがそれでもぞっとするものは抑え切れなかった。 そもそもどうして真冬に、こんな山奥の、真夜中の、寺に、一人で? お寺じゃ 真っ赤な花が咲く 子供は歌いながら、黄色みがかったやわらかそうな鞠をついている。糸で頑丈に丸まった鞠の表面には金糸銀糸の花々が描かれている。それがはっきりと見えた。子供は粗末な、いまどきはもう見ない学童服に身を包んでいた。黄色と黒のちゃんちゃんこがいかにも不自然で、一体今はいつなのだろうと思ってしまう。冬の山風にさらされた膝小僧が赤くなっていて、寒そうだった。 子供は流れるような動作で鞠を手元に戻し、こちらを振り向いた。 こんばんは、良い夜ですね 声は子供らしくなく落ちていた。茶色の髪は、前髪が長く左目に掛かっていた。一つだけ見える目が真っ白に光って、こちらを凝視しているのがわかる。限界まで見開かれたかのように思える眼球はごりゅごりゅと音を立てていそうだ。 なによりもその目の遠さが恐ろしい。私の顔を、身体を通り越し、山を超え、川を超え、あのビルの三階の床の赤さまで見ているような目だ。すらすら、くすくす。視線が声を持ち私をあざ笑う。 お前は、だ、誰だ 振り絞った声に子供は首をかしげた。仕草はまるでネコのようで幼い。小さな口がゆっくりと大きく開いて動いた。 こんばんは、良い夜ですね 繰り返される同じ言葉に、にわかに恐怖を覚えた。この子供は私が殺したというまで、同じせりふを繰り返すのではないかと恐怖を覚える。知られている事に、知られているというのに知らない振りをされていることに。 人は 子供は無表情に囁く。口だけが大きくゆっくりと動いている。膝は寒そうだ。いまどきちゃんちゃんこなど。 人は 死ぬとき 何を思うのでしょうか、知っていますか? し、知らない!と私は大声を張り上げる。死んだ事もない、知るわけもない。すると子供はその遠い目をより一層くるりと開いてため息をついた。 赤い 花 ってあるでしょう?あれって湿疹の こと なのですね。 昔ここら一帯で 黒死病 が 流行ったとき そういって 笑ったそうですよ 親兄弟 も 死にゆく中で 明日 自分の腕に 湿疹が無いか 不安に思いながら 鞠ついて ほら こういう風に 子供の喋る声はぶつぶつと途切れて聞き取りにくい。不気味な内容を無表情で御伽噺のように喋る子供はやめたときと同じようにやはり滑らかに鞠をついた。歌われる童謡はあぶなげに響き渡る。か細い声が葉の間を通り過ぎ、私の頭を、身体を、通り過ぎる。 てん てん てん 里の真冬も もう開ける お寺じゃ 真っ赤な花が咲く てん てん てん 母を失くした 子が笑う 振り向きゃ 鼠がちぃと鳴く 鼠がかじっていく様を想像する。眼球をやわらかな頬を唇を指先を、曲がった首を、ぐちゃくちゃになった顔を、鼠がきぃきぃと鳴きながら食いむさぼる様を想像する。汚い、どぶで固まった毛先が赤くぬれるが誰もそんな事には気がつかない。 そのとき、さらりと髪が風に吹かれて左目が垣間見える。左目、のある場所の暗闇が見える。じくじくと治りきらない赤黒い傷跡と、洞穴のような空洞。ひぃ、と喉の奥で声が消える。 それに気がついて、子供は初めて笑った。口の端を上げ、ゆっくりと笑った。穏やかな笑顔だった。それはあまりにも穏やかで、一瞬後には剥がれ落ちるのだと思わせた。くす、くすくす、と葉の囁きあう声が、くす、くすくすと子供の笑い声が、すら、と服のこすれる音が、からん、と下駄のなる音が。 耳のおくで反響する。 貴方 人を 殺しましたね ちがう、ちがうんだ、私は、私は 子供は笑い続ける。くす、くす、から、からから、げらげらげら。無意味な笑い声、嘲る声、どちらともつかない。理解できないものは恐怖だ。怖い、怖い、たすけてくれぇ。 大丈夫 ですよ ひやり、と冷たいしめった皮膚の感触がした。白く綺麗な指ががっちりと肩に食い込んでいる。かつん、と固い木の感触が脳天にある。 ほら 貴方の後ろに 真っ黒な 影が 振り下ろされる、風音が最後に私の耳を打った。子供は空洞を覗かせて笑っている、ように見えた。 ほら 見えますでしょう 父さん ぼこん しばらく子供は古寺の境内を下駄を鳴らして歩いていた。ふと手から鞠が零れ落ちる。はげた石畳のまだらの土の上鞠ははねる。てん、てん。 てん てん てん 里の真冬も もう開ける お寺じゃ 真っ赤な花が咲く てん てん てん 母を失くした 子が笑う 振り向きゃ 鼠がちぃと鳴く 寺の格子の 内側で おっともおっかも眠ってる てん てん てん てん てん てん 鞠をついても 答えなし あやしてくれる 母もなし 土間の暗がり その影で 汚れ鼠が ちぃと鳴く お寺じゃ 真っ赤な花が咲く |