年月






1.プロイセンと日本

 通された書斎は割合に質素なものだった。フランスとはまた違った豪華さではありどこか絢爛と言うよりも素朴さが感じられる。日本は応接間のソファに座りながら、どう話を始めたものか悩んでいた。
「どうだ、この国は?」
 出し抜けに書斎の机で書類仕事をしていた男が言った。日本は、息を飲んでから口を開く「
「ここは寒い国ですが、すばらしいです。特に学問に秀でている。エリート教育と政治がしっかりと結びついていますね。近年の自然科学の分野でのこの国の進歩は目覚しいものがあります。その理由を教育制度に見ることができました」
 日本の意見に机の上で仕事をしていた男はぴたりとペンを止めて、満足げに頷いた。
「まあ、教育は大事だぜ」
 なにせ、俺様のかわいいドイツを背負って立つのはそいつらなんだからな、と男、プロイセンは自慢げに言った。
「ドイツ?」
 日本がきょとんとそう問うと、プロイセンはそれこそ心外だとでもいうように赤い瞳を細めた。日本はなにか粗相をしてしまったのではないかと内心慌てる。海外を見て回る良い機会だと連れ出され、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーときて、いまやこうしてドイツまでやってきたのだ。日本にとっては衝撃の連続で、情報を整理しきれていないのが正直なところなのだ。
「こっちの言葉で民衆の国って意味だよ。ここらはずっと分裂しててな」
「あ、はい、不勉強ですみません。それがようやく統一できようかという機会なのですよね」
 日本の言葉にプロイセンは、そうさ、とペンをつきつけた。プロイセンの勢いに日本はびくっとするが、プロイセンはそれを気にもしないようである。ああ、そうさ、と満面の笑みで言う。
「まぁ、ドイツが生まれたのはもう少し前なんだが」
「新しく国が生まれたのですか?」
 こうして喋っている二人であるが、二人は正しくは人間ではなく国である。国はそうそう生まれるものでもなく、日本は驚く。そもそもこの旅は驚きの連続なので、少々驚き疲れてきたような気もする。
「失礼ながら、ドイツの内政はほとんどプロイセンが引き継ぐと聞いていますが」
 日本の言葉にプロイセンは一度、目を閉じた。それからゆっくりとまぶたをあげる。赤い瞳がゆるゆると現れていくさまはまるで太陽が上っていくようであるまいかと日本が思ったのは、それだけプロイセンの眼光が強かったからだった。
「そう、統一ドイツはプロイセンが主導権をとる、がドイツは生まれてしまった」
 生まれてしまった、とはまたひどい言い草であるな、と日本は思ったが口には出さないでおいた。出しても余計な逆鱗にふれるのはごめんである。自分の国が大きくなると思ったら、そこに生まれた「新しい国」はすなわち「自らの衰退」を意味する。
 しかしプロイセンは日本の考えを読んだようににやりと笑った。
「だがルッツはかわいいぜ」
 察するにドイツの名前なのだろう。プロイセンは笑いながらまた書類の目を通し始めた。
「やはり子供はかわいいものですか?」
 日本の言葉に、プロイセンはすこし嫌な顔をしたあとペンを持っていないほうの手を二往復ふった。
「子供じゃなくて、ありゃ弟だな」
 まだ子供を持つような年でもないしなぁとプロイセンは笑った。国に年齢とはあまり関係のない話ではあるが、日本はあいまいな笑いで頷いた。確かにプロイセンの外見はまだ若々しいものであった。
「弟さんはいらっしゃらないのですか?」
 日本の言葉にプロイセンはペンを持つ手を額に当てて、一度うつむいた。
「いる」
 でしたら、と日本は言う。お会いしてみたいですね、と続けるつもりだった。
「が、お前には会わせない」
 今はまだ、とプロイセンの言いように日本は面食らう。この人の言い様はいちいち攻撃的である。
「いつか、お前の前にドイツが現れたとき、俺がどうなっているかはわからないが、きっと立派になっているはずだから」
 なにせ俺様が育ててるんだからな、とプロイセンは胸をはる。それからははは、と高笑いをした。
「よくしてやってくれ」
 あいつは俺達の望まれた王なのだ、とプロイセンは彼の横柄で傲慢とも取れるような態度とは裏腹な言葉を続けた。神聖ローマとは違って、と続けられた言葉にどんな思いがこもっているかを日本は知らないし、もちろん知るつもりもない。

「はじめまして、ドイツさん、日本と申します」
「ああ、よろしく、俺がドイツだ」
 初めて出会ったドイツは、なるほどプロイセンがいつか言っていたように立派な青年だった。日本はプロイセンとはまったく違った金色の髪と青い瞳をなんて綺麗だろうと思った。
 それから差し出された手の暖かさに、なぜだかひどく心もとなくなってしまった。彼はまだ若いのだと突然思ったからだった。日本は自分よりも大分高いところにあるドイツの顔を眺めた。哀れみと同じような愛しさがこみ上げてくるのに日本は少し混乱をした。
 彼があの傲慢な銀髪の男の王。望まれた帝国。ドイツがどのように育てられ、そして歩まされるのか日本は一度だけ考えた。そうして、この精悍な彼がそのまま歩んでくれれば良いと思った。誰も彼を悲しませることのないように。
(おそらく無理でしょうけれど)
 それでも日本はまだ若いこの青年が折れることがなければ良いと、そう思った。



2.アメリカと日本

 一九四五年十月、日本は雨が降るのを見た。空は青く晴れていたのに、目の前の窓には白い線が幾重にも引かれて雨の落ちる音が包帯越しに聞こえる。ひどい大雨であろうに、窓の外の樹は木の葉さえ揺らしていなかった。
「日本は連合軍が占領統治する」
 アメリカが言うのを日本はベッドの上でぼんやりと聞いていた。雨の音がひどすぎてアメリカが何を言っているのか日本にはよくわからない。
「聞いているのかい、日本」
「聞いています」
 それは逃避であるな、と日本は思う。雨音が酷い。
「統治については間接統治の形をとるよ。そっちのほうが摩擦が少なそうだからね」
「そうでしょうね」
「君の外交権はいまはなしだ」
 わかりました、と日本は淡々と頷いた。ざああ、と窓の外の木の葉が鳴いている。日本はアメリカから視線をはずして自分の手のひらを見た。いつの間にか傷だらけになっている。握って開いてを繰り返すと、うまく力が入らずに震えながらのぎこちない動きになった。
「それから新しい憲法を作ってもらうんだぞ。こんなことがもうおきないような平和的な憲法だ」
 日本は自分の手のひらから視線をあげて、アメリカを見た。アメリカの眼鏡越しの瞳は青くきらきらと輝いている。ドイツさんの瞳はあれより少し薄いくらいでしょうかね、と日本はぼんやりと思う。
 恐怖はなかった。
 雨は降り続けている。
「それから連合軍を日本に置かせてもらうんだぞ」
 雨音が酷くなる音がする。

 急速に作り変えられていく己を日本はぼんやりと見つめていた。どうしてこんなことになったのか考えてもよく思い出せなかった。ただ、昔似たようなことがあったような気がするだけだ。江戸の終わり、明治の始まり。西洋化の波は大きくうねり、うねりさえ飲み込んで日本を押し流す。それとよく似ている。
 日本は晴れている外を見上げながら、窓に額をこつりとつけた。そこはじんわりと暖かかった。それから目を閉じて、イタリアやドイツの事を思い出した。
「ふふ」
 楽しかったといったらそれは罪になるのだろうか、と日本は考える。三人でやっていた訓練や、陽気なイタリア君の脱走劇や、それに怒るドイツさんの顔、と歌うように小さく日本は呟いた。
 俺達を中心に世界が回るで枢軸だよ!とイタリアは大言壮語を吐いていたのだ。あの時、それを聞きながら自分は何を思っていたのだろう。よく思い出せなかった。日本がもう江戸時代のことを遠く思い、うまく思い出せないのと同じように。
「やぁ、日本、元気かい?」
「アメリカさん」
 日本の元にアメリカは結構な頻度で訪れていた。イギリスも時々やってきてはいても、その頻度はアメリカほどではない。
「あんまり元気じゃなさそうなんだぞ。顔色も白いし」
「元からこうですよ」
 確かに最近の日本は起き上がり歩けるようになったとはいえ、あまり外には出ていなかった。日本がいる病院には中庭もあり、今そこは太陽の光をさんさんと浴びて暖かそうだった。
「こんなに天気の良い日は外にでるのがいいと思うんだ」
 そういってアメリカは日本の腕をとって、日本をベッドから引きずり出す。日本はアメリカさん、と少し困ったようにいいながら、ベッドから出る。足は萎えてはいないが、それでもうまく力が入らずにふらついた。大丈夫かい、日本、とアメリカが日本を支える。日本はアメリカの胸においてしまった手をゆるりと突き放してから、とられた手を大丈夫ですよ、と振り払った。
「最近は、散歩もしていますしね」
「それはいいことだね」
 でも、俺はまだ日本と散歩をしたことがないぞ、と胸をはってアメリカが言う。日本はアメリカの後ろを歩きながら、それは、と声をあげた。
「あなたが雨の日にばかり来るからですよ」
「そうかい?」
 アメリカは日本の言葉に疑問の顔をしてから、まぁ、そんなことはどうでもいいんだぞ、と笑った。
「今日、散歩すればいいんだからな」
「え、でも今日は」
 雨が、と日本が言う前にアメリカは日本が振り払った手をとって、日本を中庭に連れ出した。日本は急に明るいところに連れ出されて目を瞑る。冬の最中の、変に暖かい日で、陽だまりの中にいるとまるで春そのもののようだった。
 日本がまぶたを上げると、頬を雨がぬるりと伝っていった。右手で頬をぬぐうとそれは銀色に光り輝いていた。日本を雨が、待っていたかのように何粒も打ち据えた。
 銃弾の雨が降っているようだった。あるいはジェラルミンの煌きのように日本の目を射った。日本の視線の先のアメリカは今日は良い天気なんだぞといいながら伸びをしている。
 日本は自分の前髪をぽたりと雨が伝って落ちていくのを見た。
「こんな日はピクニックがしたくなるな」
 こんな日はピクニックがしたいよね〜とイタリアがいつか言っていたのを日本は思い出す。ドイツがそのそばで、お前はいつも遊ぶことばかり考えて、と困ったような顔をしていた。それは暖かくなり始めた初夏の頃で、この空よりもずっと薄い空が広がって、その色はドイツの瞳とそっくり同じなのだった。
 イタリアの視線の先にはライラックの花がこんもりと咲いていて、日本は確かにピクニックをしたら楽しそうだと思ったのを覚えている。風が爽やかで思わず微笑むと、それを見ていたドイツが、ゆっくりと笑ったのだ。いつもはしかめっ面をしていることが多いドイツだが、笑うと存外幼い顔になった。日本はその顔が好きだった。プロイセンの言うことを不意に思い出すからだ。よくしてやってくれと、言うまでもなくドイツは立派な存在だった。プロイセンと共に、じわじわと国内経済を立て直し、彼は軍靴をはいて立派に行進をしていた。
 それを懐かしく、輝かしく思い出すのは、不謹慎なのだろうか。
「日本?」
 ぽたり、とまた頬を雨が打った。アメリカがいつの間にか日本の目の前で心配そうに顔を覗き込んでいた。日本は笑って、なんでもないですよ、と答える。
「アメリカさん」
「なんだい?」
 アメリカはどこも濡れてなどいない。からりと乾いた笑顔のままで、服のままで、日本の言葉に問い返した。日本は降ってくる雨に打ち据えられてぬれねずみのような気持ちだった。
「私、雨で濡れていないですか?」
 だがそれは不思議と冷たくはない。暖かくもない。ただ、濡れているという感覚がするだけだ。アメリカは何を聞かれているかわからないという顔をした後で、一言だけ笑って答えた。
「君は濡れてなんかいないぞ」
 何を言っているんだいと言われて、日本はうつむいて笑った。本当はおなかを抱えて、笑い出して、うずくまって泣きたかった。寒いとわめきたかった。時間を戻してくれと誰かに縋りたかった。イタリアに、なによりもドイツに会いたいと思った。
 そうして晴れた空の下で、ピクニックへと行きたい。そうしたら今度こそおにぎりを持っていこう。
 日本はそんな思いを全て握りつぶしてから、アメリカに向かってゆっくりと笑いかけた。
「そうですね、変なことを聞いて申し訳ありませんでした、アメリカさん」
 ざぁ、と銀色の雨がひどくなって、アメリカの姿が一瞬見えなくなる。日本はそれを見ながら、アメリカが消えてしまえばいいのにと一度だけ思った。
「アメリカさん」
 ごめんなさい、と思いながら、そうですね、今度ピクニックをしましょう、と日本は続けた。その時もこんな雨は降っているのだろうかと考えた。
 おそらく降っているのだろう。
 そう思って日本は笑みを深めた。もう何もかもがどうでもよいと思ってしまったからだった。今はただイタリアやドイツが懐かしい。あの五月が。



3.日本とドイツ

 雨が降っている。銀色をした雨が降っている。あるいは鉄の味をした空気が、降り積もってはじゃらりと音を立てる。時折雲間から覗いた光が雨を反射させてドイツの目を射った。ドイツは日本の家の縁側に座って、庭に立っている日本をぼんやりと眺めていた。庭に立っていた日本が目を細めるくらいだったので、ドイツは目を細めて、そしてやはり耐え切れずにそのまま瞼を落とした。金色のまつげが光にすけて見えるのを日本はぼんやりと眺めた。ドイツはプロイセンほどでないにしろ、日本に比べれば光に弱い瞳を持っていた。それを見ていた日本が、笑いながら、口を開く。
 きれいな色ですから、もろいのはしかたありません。
 日本の口調は流れるようだった。ドイツは日本に傘を差し出したかった、客人である自分には日本の家のどこに傘があるのかはとんとわからなかったし、そもそもこの雨が日本に見えているかさえ、ドイツには自信がなかった。
 雨は日本の頭上にどんどんと降り注ぎ、彼を濡らしてとどまらないようだった。縁側で座っているドイツの足や手はさらりと乾いたままで、ドイツはこの雨がどういう雨かというのを良くわかっていた。
 日本はドイツが困った顔をしているのを見て、ほほえましいというように笑って、首を横に振った。日本は昔からドイツに時々そういう顔をすることがあった。その静かな愛情のこもった視線がドイツはどうにも、苦手だった。気恥ずかしいのもあった。
「傘はいいんです」
 日本にしてははっきりとした物言いだった。
「傘なんて何の役にもたちません」
 日本が銀色のしずくを黒い髪からひとしずく落として、縁側に座っていたドイツの方へと手を伸ばした。ゆっくりとした動作だったので、ドイツは日本の手を払いのける機会をついぞ持てなかった。頬に伸ばされた指先は冷たい。
「これはきっと雨ではないのですから」
 だがそれは濡れて冷えた指の冷たさではなく、元来日本には足りない暖かさというものがあって、それを表しているかのような冷たさだった。日本はおや、と今更気がついたようにおどけて、ドイツさんは暖かいですねぇと笑った。
「イタリア君の言ったとおり、です」
「日本」
 ドイツが返答に困っている間も、日本の手はドイツの頬にずっと置かれたままだった。ゆっくりと滑らされる手のひらはしっとりしていて、やはり冷たかった。雨はいつの間にか銀色から透明に色を変えている。落ちていく一滴に庭の風景が逆さに写って見える。
「雨、やみませんね」
 日本は雨の中長いこと庭に立っていたというのに、一滴の水ですら濡れていなかった。
「ながいことふっているのか」
 ドイツは困ったようにそう聞いた。おぼつかない物言いになってしまったのは、嫌な事を思い出しそうだったからだった。例えば帰れば家の中ががらんと空白であることについて、銀色の雨の色づく瞬間について、そしてそれが誰も見えないことについて。
 日本はドイツに触れていないほうの手で口元をかくしてから頷いた。それから悲しそうに、ずっと止まないんです、と言った。
「あまりにも止まないので、いつから振っていたのか忘れてしまうほど」
 そう言って、ドイツに寄りかかり目線を合わせる日本は百年前とあまり変わらなかった。黒い瞳のその中に得体の知れないものが渦を巻いている。かつてドイツはその中に憧憬を見て、今は諦めを見ている。それでも何か大きなエネルギーのようなものが彼の瞳の中で身をくねらせている。
 雨と言えばと、日本は不意に思い出しように呟いた。
「イギリスさんの家に言ったときのことを、たまに思い出します。あそこも雨の多い土地ですからね」
「イギリスの?」
 イギリスと聞いただけで少し深くなった眉間の皺に、日本はゆるく笑ったようだった。ああ、あなたは、と呆けたように呟く。
「なんでも覚えすぎている」
 流されやすい質なのに、と日本は付け加えた。彼はするりとドイツの頬から手を離して彼の横へと座り込んだ。雨は音もなく振り続けている。太陽は明るく差し込んでいる。庭の木々は少し乾いている。日本の買っている犬が庭の隅で安穏とうずくまっている。
 雨は降り続いている。
「ベルリンにも」
 日本はドイツの肩に手をかけ、ドイツの瞳を覗き込んだ。きれいな色をしていますねぇ、本当に、宝石のような、と日本は言う。何をやっているのだろうとドイツは思う。自分達は何をしているのだろう、と。いや、きっと日本に聞けば答えてくれるのだろう。彼は、時々まるで何もかも知っているように物事を喋るのだから。
「雨は降るのですか、ドイツさん」
 日本はそういいながら、ゆっくりと優しげに笑った。ドイツは日本に言われてひどく狼狽したことに動揺した。それから日本の顔から視線をそらして、何を言っているんだと笑った。自分の口からもれ出る笑い声はずいぶんと乾いたものだった。
「何を、なんて」
 わかっているくせに、と日本はドイツの顎を人差し指で抑えた。
「異なる人と書いて異人さん」
 やってくると降る雨、と日本が歌うように喋る。
「ベルリンの雨はどのようなものですか?一人あなたにしか見えない雨は。あなたしか濡れない雨は、何色をしていますか?このように」
 日本は縁側から手のひらを伸ばして、降っている雨を掬った。それは水銀のように日本の手のひらの上でゆるりと円を形作った。
「ジェラレルミンのような、銀色を?」
 ドイツは目を瞑る。それは結局ベルリンに降る雨を思い描かずにはいられなかったからだった。日本に導かれるように、ドイツの口が開く。

「べるりんの」
 ドイツの口調は幼かった。日本は笑いながら泣きたくなっている。いつかプロイセンが言ったことを日本はぼんやりとしか思い出せない。彼は俺たちの待ち望んだ王。よくしてやってくれと。
「あめは」
 ドイツへのこの感情は結局は同病相哀れむものに過ぎないのだ。冷たい雨に打たれているのは自分だけではないと確認したいに過ぎない。いや、それより前から、この感情はあったような気もする。
 ドイツのまぶたが持ち上がって、細く目が伏せられる。青い瞳は何度見ても美しい。この銀色の雨よりもよほど良いと日本は思う。
「兄さんの目のような、赤い色をしている」
 そして何もかも血に煙ったように赤く染まる、ドイツはそう言った。日本は、その答えに一瞬身を引いてから、きょろりと瞳を驚きで丸くした。驚くべき速度で自分を襲った感情に瞠目したからであった。
 それは圧倒的な、哀れみだった。かわいそうに、と日本は雨に濡れながらドイツに思うのだった。かわいそうに、あなたはまだ若く、幼いのに。
「ねぇ、ドイツさん」
 あなたは何でも覚えすぎているのですよ、ともう一度繰り返した。
「忘れたらよろしいのです」
「忘れる?」
 私のように、と日本は心のうちだけでいい、笑いを深めるにとどめた。
「そうです。忘れたらよろしいのです、私たちの生は気の遠くなるほど長くて、後悔など無数にあるのですから」
 それは、と日本の言葉を聞いて、ドイツは苦笑した。泣いているように、日本には見えた。
「難しい話だ。人間は忘れる生き物だ。だから迫るように言う。忘れるな、忘れるな、自分が何をしたのか、この手で」
 ドイツはそういいながら、手を握っては開いてを繰り返していた。日本はドイツの手の上に自分の手のひらを重ねる。
「人間はそうかもしれません。でも私たちの生は長い。私などは忘れっぽくていけませんけれど、あなたは覚えが良すぎますよ」
 まるでレコードのように一度二度、風景を写真のように記憶して、後からいくらでも罪の解釈ができるように。
「赤い雨のふるベルリンを私は美しいと思いますよ。あなたがどう考えていてもです。でもそれも、忘れてしまえばいい」
「忘れてもなかったことにはならないだろう」
 日本、と咎めるようにドイツが言う。
「そんなものは文字に留めておけばいい。少なくとも貴方一人が背負わなくてもいいことでしょう?」
 この雨が、と日本は息を吸い込んで続けた。銀色の、日本しかぬらさない雨が日本の口に入り込んだ。それはさびた鉄のぬるりとした味がした。
「私しかぬらさなくても、アメリカさんに、イギリスさんに見えなくても、貴方に見えればそれで私は救われる。そして忘れてしまうのです。ドイツさん」
 覚えが良すぎるのは時につらいものですから、と日本は笑った。
「戦い続けた十五年などすぐです。戦わなかった二十年などすぐです。四十年などすぐです。六十年などすぐです。」
 百四十年などあっという間ですよ、と日本はドイツの手のひらを握りながら言う。
「お前にとってはか?」
 ドイツの手のひらは暖かい。日本は笑みを深くする。
「もちろん、私にとってはです」
 けれど私は貴方の救いに、なれはしないでしょうかと日本は言いそうになって口を噤んだ。代わりに何を言おうかと、この哀れみを、あるいは愛しさをどうあらわせばいいのか忘れてしまって、ことりとドイツの肩に頭を乗せた。
 もしかしたら二人で泣けばいいのかもしれない。もしかしたらすべて話せばいいのかもしれない。もしかしたらただ話を聞けばいいのかもしれない。もしかしたらすべて忘れてしまえばいいのかもしれない。もしかしたら。
「私、このまま死んでもいいんです、ドイツさん」
 雨は降り続けて、止むことがない。ベルリンの雨を見てみたいと日本は思って目をつぶった。雨が風に吹かれてゆるりと日本の頬を伝って、もしかしたらそれは涙のように見えたのかもしれなかった。